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「福島三部作」で原発に揺れた町を描く

民主主義の欠陥を自覚し、新たな熟議を

谷賢一 劇作家、演出家、翻訳家

 私は劇作家・演出家、そして戯曲専門の翻訳家として、まさに演劇で飯を食っている人間である。演劇のプロパー(専門家)だ。

 「本当は映画が撮りたいのだけれど、そのためのステップとして」とか、「実は小説家になりたいんだが、その繋ぎとして」演劇をやっているわけではなく、まさに〝演劇こそ最も優れた芸術である〟と信じて、演劇をやっている人間だ。それが証拠に映像やテレビの仕事は断っている。

 世間では未だに演劇=売れない作家と食えない役者の掃き溜めのように思われており、このイメージを覆すのは非常に難しいのだが、私は選んで・好んで演劇をやっている人間であり、これからもそうしていく。演劇は優れた芸術なのだ。

 では、演劇のメディアとしての強みは何か。逆に弱みを挙げるのは簡単である。チケット代は高いし、劇場まで行かないと観られないし、再演も少ないし、時期を外したら二度と観られない。しかし演劇には、他メディアでは絶対に実現し得ない大きな強みがある。その一つが、まさに今挙げた「劇場まで行かないと観られない」というデメリットと表裏一体の強み、作り手と観客全員が時空間を共有することによって生まれる現前性と臨場感の感覚である。

福島三部作・第一部「1961年:夜に昇る太陽」の1場面=DULL-COLORED POP提供

演劇は議論を描くのに向く

 どんなに過去の出来事だろうと、SFめいた出来事だろうと、「今・ここ」で起きていることのように感じられ、しかも百人なら百人、千人なら千人の作り手と観客が、同じ空間の中で同じ問題に直面し、考え、祈るという豊穣な時間が演劇の中では流れる。劇場まで足を運ばないといけないという一見デメリットに見える特質が、実は演劇の最大の強みを生んでいるのだ。

 また、セットや劇場機構の制約があるため、(基本的には)映画や小説のように物語の中であまりビュンビュンと時間や場所を飛べないという弱みもあるが、これも逆に一つの強みを生んでいる。映画などに比べ場面転換が少ない方がいいということは、一つの場面が長い方がいいということであり、すなわち演劇は長い会話、端的に言えば込み入った議論に非常に向いているのである。

 2500年前の古典であるギリシャ悲劇の大半は、ある人物や事件の良し悪しに関する長い議論でできているし、500年前の古典であるシェイクスピアのハムレットは、「生きるべきか、死ぬべきか」延々と考え続け問答し、近現代の名作にも法廷劇ないし論争劇と呼ばれるジャンルがあるくらい、演劇は議論・論争に向いている。複数の、それぞれに異なる立場や意見の人物が現れて、それぞれの意見を対立させ、議論・論争しながら物語は上昇し結末へ向かう……というのが演劇の一つの常套手段でもある。

 劇作家であり翻訳家でもあった文豪にして演劇理論家・木下順二は、このことを端的に「演劇とは対立である」と述べており、劇作・演出の基礎として対立をいかに描くかが重要であると述べている。また、現代口語演劇理論を提唱し2000年代以降のあらゆる作家に影響を与えた現代劇作家・平田オリザも、「会話と対話」というタームを使いながら、演劇は問題の解決を目指すものではなく、問題の前で右往左往し、困惑する人間たちの議論を描くためにあるということを言っている。

 つまり演劇とは、多様な価値観の関わる問題について語ることに非常に向いており、解決しづらい問題について語ることにおいて、大変優れているということになる。

原発に翻弄されてきた双葉町

 前置きが非常に長くなった。私は2019年の夏に、「福島三部作」と題して、福島県と原発の歴史を25年ごとに輪切りにするトリロジー(三部作)を書き、演出し、発表した。

 第一部は『1961年:夜に昇る太陽』と言い、原発誘致が決まった1961年の当初、福島県双葉町が

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