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1980年代以降迷走する教育改革

「不確実性の罠」にはまった主体性論

苅谷剛彦 オックスフォード大学教授

西欧近代モデルの喪失が背景に

 ここまでみた「主体性の変容」が80年代を起点に展開したことの背景には、拙著『追いついた近代 消えた近代』が詳細な分析を通して明らかにしたように、西欧近代に追いついたという時代認識があった。

 キャッチアップ型近代化の終焉を高らかに宣言した大平正芳政策研究会による80年の報告は、「もはや追いつく目標とすべきモデルがなくなった。これからは、自分で進むべき進路を探っていかなければならない」(「文化の時代の経済運営研究グループ」)との課題を示した。

 それが臨教審に踏襲される。もはや日本の外部に模範とすべきモデルはない、というモデル喪失の時代認識=問題設定である。

 それゆえ「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」(96年中教審)の育成が唱え続けられる。今日まで続く主体性の希求である。

教育論がはまった「不確実性の罠」

 だが、「予測できない未来」「先行き不透明な」社会の変化に「主体的に」関わるとはどのようなことか。それを可能にする資質・能力とは何か。

 先に見た敗戦直後や70年代までの主体性の希求と比べると、主体性とは何かを認定するための輪郭がぼやけている。過去や現在の問題に焦点を定めて、そこで欠けていた資質や能力の育成を求めるのではない。予測できない未知の未来に焦点を定めて、変化に対応できる資質や能力を求めている。主体性の輪郭がぼやけてしまうのは、「予測できない未来」=「先行き不透明な」社会の変化といった問題構成の前提が、不可知論を含んでいるからだ。

 ここには、「不確実性の罠」が潜んでいる。

 未来志向のプロジェクトである近代の教育は、不確実性の罠にはまりやすい。未来に向けてしか意味をもたない予測不可能性と結びつけられる「不確実性」への対応という問題設定は、それに対応できる資質や能力の必要性を強調する上で、またとない言語技法(レトリック)である。その内容が確定できない、曖昧なものであったとしても、それらを欠如として定めることができれば、その育成の必要性は易々と受け入れられる。

 しかし、ここには循環論法が潜んでいる。不確実性が予想のできない事態である限り、その事態に対応するために必要な資質や能力の中身は確定できない。その中身を確定できない資質や能力は、その育成の方法も確定できない。それが実際に育成されたかどうかもわからない。こうした資質や能力、さらにはその育成方法やその検証の不確定性は、将来の社会の変化の不確実性が、確定不可能なことから生じる。まさに循環論法による論理の構成である。

 そして、その循環論法を表面上取り繕っているのが、「主体性」という欠如態としての理想である。
過去に向かって歴史を振り返る場合には、私たちは、その時代時代で直面してきたはずの「不確実性」を簡単に忘れてしまう。だが、すでに起きたことは、たとえその突発的な出来事が「想定外」であったとしても、すでに経験した過去として位置づけられる。

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筆者

苅谷剛彦

苅谷剛彦(かりや・たけひこ) オックスフォード大学教授

1955年、東京都生まれ。東京大学教育学部卒。同大学院教育学研究科修士課程修了。ノースウェスタン大学大学院博士課程修了。東京大学教育学研究科教授などを経て、2008年から現職。専門は社会学、現代日本社会論。著書に『教育と平等』『大衆教育社会のゆくえ』(いずれも中公新書)、『増補 教育の世紀』(ちくま学芸文庫)、『オックスフォードからの警鐘』(中公新書ラクレ)、『追いついた近代 消えた近代』(岩波書店)などがある。