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日米同盟、強化の選択重ねた戦後 安保改定60年

説明責任は劣化が加速 選択肢を国民に隠すな

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

 「日米安保条約は日本の外交・安全保障の基軸」(首相の安倍晋三)とされるが、それは戦後日本が日米安保体制を選び、強化する選択を積み重ねた結果だ。現条約締結60年を機に今後を考えるため、「選択の戦後史」を概観する。(敬称略)

1951 旧安保条約の締結

 今の日米安保条約の前身である旧安保条約は1951年、日本が敗戦後の占領から主権を回復したサンフランシスコ講和条約と同じ日に署名された。これが日米安保体制をめぐる日本の最初の選択だった。

首席全権として講和条約調印式で署名する吉田茂首相(左)=1951年9月、米国・サンフランシスコ

 戦争に勝った連合国の側で、米国とソ連が対立する冷戦が始まっていた。日本の講和を、米国を中心とする西側(資本主義陣営)との間で優先するか。ソ連を中心とする東側(共産主義陣営)を含む全体との間で結ぶか。日本は前者を選んだ。

 対日戦争の主力だった米国は連合国による戦後の日本占領で中心となり、日本の主権回復に向けた交渉相手も主に米国だった。それを担った首相の吉田茂は回想録で、歴史観としての「対米協調の必然性」をこう述べている。

 「わが国は明治開国以来、英米両国との政治的、経済的協調によって国運の隆昌を来したが、満州事変以後そうした国策の大道が見失われた。日本は米英と行を共にしながら栄え、米英に背を向けて破滅したといっても過言でない」

 吉田には共産主義への警戒感も強かった。49年に中国共産党が中華人民共和国を建国。50年に朝鮮半島では北朝鮮の南進で戦争が始まって米中が参戦し、日本は米軍の出撃拠点になった。冷戦は東アジアで熱を帯び、日本はすでに西側に組み込まれていた。

 米国は日本の主権回復後も米軍の駐留継続を望んだが、それは吉田の思惑にも沿っていた。経済復興に傾注するため安全保障を米国に頼るという、後に「吉田路線」と呼ばれる考え方だ。45年の敗戦により旧日本軍は解体され、翌年制定の新憲法は戦争放棄と「戦力」不保持を掲げていた。自衛隊はまだなかった。

 51年、吉田が日本全権として署名した旧安保条約の冒頭にはこうある。

 「日本は本日連合国との平和条約に署名した。日本は武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない。

 無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本には危険がある。よつて、日本は平和条約が日本と米国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべき米国との安全保障条約を希望する」

 米国も「平和と安全のために、現在、若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある」と記された。ただし米国は、日本が独立国となる以上、その防衛の責任を完全に負うわけにはいかなかった。

 旧安保条約で米国は日本に、「直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する」と念を押した。52年に吉田内閣は「戦力」に至らない自衛のための実力を持つことは合憲との解釈を示し、54年に自衛隊が発足する。

1960 現安保条約の締結

 この旧安保条約の中身を大幅に変え、「極東の平和と安全」のため日米が協力するという今の安保条約が1960年に発効する。これが次の重い選択だった。

 日本は56年に鳩山一郎内閣でソ連と国交を回復し、国際連合にも加盟。だが北方領土問題が解決せずにソ連と平和条約は結べず、二度の世界大戦の反省から生まれた国際連合の集団安全保障体制も米ソ対立で機能しない状態が続いていた。

 57年に首相となった岸信介は

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