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映画「ANPO」から10年

芸術に込めた怒りが問う今

リンダ・ホーグランド 映画監督

 私はアメリカ人の宣教師の娘として京都で生まれ、山口と愛媛で育ち、公立の小中学校で日本の歴史を教わった。だが、1960年に起きた「戦後最大の危機」については、教科書にも載っていなければ、先生から一言も聞いた記憶がなかった。唯一のヒントは、20年くらい前に邦画の英語字幕を書く仕事を始めた際に、黒澤明監督の「悪い奴ほどよく眠る」の英語字幕を書き直す仕事を依頼された時のことだ。黒澤監督の作品にはいわゆる「政治性」は滅多にないが、60年に制作され、汚職がテーマの「悪い奴」は三船敏郎が底知れない怒りを放つ一方、電話の声だけで情勢を操る黒幕の背後には、スクリーンで繰り広げられるドラマよりもっと根本的などす黒い情動があると感じた。それに気が付いてからは、60年制作の邦画をなるべくたくさん観た。「悪い奴ほどよく眠る」をはじめ、今村昌平の「豚と軍艦」、大島渚の「日本の夜と霧」、山本薩夫の「武器なき斗い」など、題名からだけでも裏切られた希望や冷笑的な諦念に満ちた作品が連想できる。テーマもジャンルもそれぞれだが、「いったい1960年に何が起きたのか」、それ以前は独自の作風や観念の映画を作ってきた監督たちが、なぜ、声を揃えたように作品を絶望で塗りつぶしたのか?

まだ清算されていない

 これらの疑問と謎の本質を追求するため、私が映画「ANPO」(2010年。オンライン上映)のリサーチを始めたのは08年の初夏だった。

 まずは『敗北を抱きしめて』で知られ、戦後日本を専門に研究してきた歴史学者ジョン・ダワー氏に映画の歴史アドバイザーを務めていただき、歴史的事実をしっかり把握できるようにお願いした。

 次は画家の中村宏さんに取材を依頼した。彼の回顧展の会場だった東京都現代美術館でお話をうかがった。座るやいなや中村さんが「戦争の後は平和じゃなくて内乱ですよ、内乱」と熱く語り出した瞬間、私は心が騒いだ。「この人は『安保闘争』として括られ、忘れられかけている『あの時』の出来事の真相を話してくれるだろう」と。当時28歳だった中村さんはデモに参加しながら絵を描き続けていたといい、私は「60年安保」はいったい何が原因だったのかと、単刀直入に聞いた。

 すると、「安保という条約が既にありました。あの時はね、批准といってそれを延長させる、あるいはちょっと修正させるということで。もう基地はヤメてくれと。だから条約も撤廃してくれと。条約があるから基地があるんだから」と分かりやすく説明してくれた。そして、進駐軍として日本にやってきた米軍兵、米軍基地が安保条約によって日本にそのまま残ることが承認され、日本中に250近くあったことも説明してくれた。いまだに収まらない怒りを込めて、「まだ戦後じゃない、清算してくれるな、と。だから『戦争期』と『平和期』という絵のシリーズの中に『内乱期』っていうのを入れているんですよ。それが安保で、それ以後、日本ではあそこまで見事に民衆が立ち上がるということはなかった。革命とは言い難いけれども、せめて内乱といっていいんじゃないか」。米軍基地の存在をめぐって日本でも革命に近い内乱期があったのだと聞き、もう一人、私が衝撃を受けた写真家の濱谷浩が写したデモや抗議に参加している人たちの必死な形相が脳裏に浮かんだ。

絵画「基地」の前で語る画家の中村宏さん(映画「ANPO」から)

 以下、映画に登場した芸術家とその作品や発言を、10年の歳月を経てもう一度たどってみたい。沖縄に押し付けられた在日米軍基地の問題、米兵が引き起こす事故や事件の責任を濁す地位協定の問題など、どれも解決されていない。その大本をたどるために60年安保の真相を語ってくれた人たちの声と情熱に耳を傾けると、「60年安保」は決して過去のものではないことが察知できる。当時の人々の熱や情念、不条理感、絶望を追体験することで見えてくるもの、また、これまで見えていなかった「何か」があるのではないか。芸術作品には、その当時の作家の思いや時代の空気がそのまま託されている。だからこそ、「安保」の本質を、芸術を通して追求するために「ANPO」という映画を作ったのだ。

むき出しの力、今どこに

 濱谷浩と中村宏。映画「ANPO」は、彼らによる一冊の写真集と一枚の絵画から始まった。

 濱谷の「怒りと悲しみの記録」と題された写真集は、神田の美術書の本屋さんが「これはきっとリンダさん向きですよ」と紹介してくれた。古びた薄っぺらな写真集のモノクロ写真をめくると、60年に日米安全保障条約の改定に反対した学生や

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