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リスクをどう報じるか

報道にとってのパンデミック対策

山田健太 専修大学文学部ジャーナリズム学科教授

 2019年末から中国で発症例が報告されてきた新型コロナウイルスによる感染症は、本誌発行段階においても終息のめどはたっていないことだろう。そうしたなかで何をどう報じるかは、報道機関にとって走りながら考えざるをえないもどかしさを生む。迅速さを旨とする報道にとって、いつも以上に正確さが必要とされるとともに、リスクの伝え方において特別な注意と経験値が求められている。誤報でなくても、一つの記事や番組がきっかけで、社会が想定とは違う方向に走り出す危険性をはらみ、しかもこれが命にも直結しているからだ。

 この間、日本政府の対応は「緩やかな封じ込め」政策とまとめることが可能だろう。最初の1月から2月にかけて始まった水際対策とクラスター対策、そして4月からは行動自粛対策を柱に据えてやってきている。これらが「緩やか」に実施されてきたというのは、徹底したものではなく、経済(あるいは東京オリンピック開催)を気にしながらの「だましだまし」政策であったという点で、大方の見方は一致するのではないか。

 政権(とりわけ首相)の打ち出す政策の多くが「後手」であるとか、「国民とのズレがある」との指摘は多い。〈感覚のズレ〉の象徴例とされる、布マスク配布(アベノマスク)、首相記者会見、便乗動画と、一方で〈タイミングのズレ〉としての批判対象である、一斉休校、緊急事態宣言、10万円一律支給である。本来はこのいずれもが、基本政策に直結しているわけだが、次々に起こる目の前の事象に引っ張られ、大きな流れとしては政府の政策をおおよそ追認してきているのが、5月連休までの多くのメディアの状況だ。

 何が正しいかわからない中で正しさを追求しなければならないジャーナリズムの苦悩は、これからも当分続くであろう。そのうえ、同じことは次のパンデミックにも、他の緊急事態対処にも、あるいは確実に起こるであろう大規模自然災害においても、繰り返される可能性がある。さらにいえば、ここで指摘する課題の多くは、日本のジャーナリズムが潜在的に有し、今日のメディア不信の要因となっているものでもある。だからこそコロナ禍のさなか、いったん足元を固める必要があると思い、「わかりきったこと」をあえて整理しておきたい。

ゼロリスク社会の危険性

 第一に、社会はついついゼロリスクを求めがちになるが、そうした時の歯止めがジャーナリズムの役割だ。さすがにここまで感染が広がると、当初の水際作戦はほぼ無効化しているし、クラスター潰しにも限界が見えている。それでもなお、濃厚接触者を隔離するなどの政策が続き、これらに対し報道は一般的に好意的だ(後述の専門家会議の基本路線が、クラスター対策で変更がないことにも起因していよう)。

 元来私たちは、自分もしくは自分の属する社会を「守る」ために、他者(異者)を排斥することで、リスクを減じようとしがちだ。しかしこうした社会行動が、結果として社会的差別を生む温床になることを私たちは知っている。少し歴史を遡れば、関東大震災における朝鮮人虐殺もその一つだし、日本の近代史における最も悲惨な国家的な排斥行為が、ハンセン病患者に対して長く続けられてきた隔離政策だった。

 感染者に対しての蔓延防止のための医療的隔離が必要なことは言うまでもないが、「社会的隔離」は国家的(社会的)差別と直結する危険性があるということだ。個人を守ることは大切であるが、社会を守ることで個人の人権を損なうことがあってはならない。国は、見た目重視のために(例えば他国からの評判)、感染の封じ込め名目で社会的隔離を推し進めがちな傾向が強い。だからこそ、一段と警戒心をもって取材力を発揮してほしい。

 ましてや、医療従事者、そしてスーパーのレジやごみ収集従事者、交通機関運転手や運送業者などエッセンシャルワーカーと呼ばれる、命と生活を守るために欠くことができない、最も大変な苦労をされている人やその家族に対する差別が、後を絶たない。こうした社会的差別をもちろん報道では否定的に報じてはいるが、一方で、それを何倍も上回る報道量でゼロリスクを求めているのが現状だ。

 当初の対中国人に始まり、若者、パチンコ店、行楽地へのお出かけバッシングと、次々と対象を変えながら、自分たちの安心社会を壊す可能性がある、いわば敵を定めて排除していく状況だ。これらは封じ込めとは違うもう一つのパターンであって、感染防止という御旗のもとで、感染者というよりむしろ特定の属性集団に対する社会的隔離にほかならない。

 この間の報道の多くは隔離政策を是として、国の対応が生ぬるいとして強く推進する立場をとってきたといえる。そのうえでなされる「攻撃」は、政府・自治体のお墨付きを得てメディアも含めて安心して行われていることがポイントだ。こうして行政発表にのって異端者の炙り出しを行う状況は、社会的差別への「消極的加担」であって、ジャーナリズムがもっとも気をつけなければならないことの一つであろう。

 とりわけ日本の場合は、ある意味での潔癖性が、国を一つの方向に強く後押しする状況を生みがちだ。こうした力は一度動き始めると止めることが難しいし、下手をすると反対者は後ろ指をさされかねない状況になる。しかも、当初の水際対策であった「武漢縛り」と呼ばれた特定国・地域に限定した入国拒否措置など、国を挙げての社会的隔離を進めてきた結果として、ゼロリスクを期待する一般市民の気持ちと相乗効果をもたらし、社会的排斥を生んでいる側面を否定しえない。

 さらに話を繋げるならば、人々の日々の行動を制約する言葉に「ソーシャルディスタンシング(ディスタンス)」が使用されているが、人と人の間の物理的・身体的距離をあらわす分にはいいとしても、この言葉のなかには社会的距離=隔離とのニュアンスが含まれていることに留意しておくことが必要だ。これはそのまま「自粛」をどう理解し報じるかにも通じる。

 これまでの忖度の時代から、忖度の命令ともいうべき「自粛の強制」という次のステップに時代が移った。行動の自粛は個々人の判断に委ねられていて、それは社会の構成員としての「責任」に帰すものだ。成熟社会であるほど、そして個が自立しているほど、公権力による自粛の要請も強制はあり得ないわけで、あくまでも責任の発揮をお願いすることでなければならないはずである。

 しかし現実の報道は、行政の自粛要請を絶対視し、それに従うことを市民の義務として捉えている。その組み立てが違うから一部の市民は反発もするし、逆に強い強制力を求める結果となる。そのエスカレートしたかたちが、誤った正義感の発露としての〝自粛警察〟だ。自粛と補償はセットという形で、両者のトレードオフ(交換)の必要性が強調された報道も多い。政治的決断においてあるいは政府への物言いとしては必要な場合も多いが、これは自粛ではなく強制の問題だ。

「接触8割削減」目標に代表される、手段と目的の錯綜も報道課題だ。感染蔓延の防止のため「3密」を避ける、がわかりやすい目的と手段の関係だろう。しかしどうしても報道では、8割といった数字の達成が目的化してしまう傾向が強い。「息抜き・解放感、抜け駆け、娯楽」のダメな理由が何なのかということを立ち止まって考えたうえ、市民としての責任感の欠如だというなら、そうした立場で報道する必要がある。

 しかもその際、より強制力や指導力(強いリーダーシップ)を報道自らが求め、自分たちの責任回避を無自覚の上に行っているという状況もある。ここには、報道が「民意」をつくり、その民意をいわば「悪用」して、法が定めたものを超えたより強い行政の「強制」力を作り出すという、負のスパイラルができている。このスパイラルは、いまに始まったことではなく、ここ数年顕著になっている、市民社会・メディア・行政の間の関係性だ。

 最近の最も顕著なものとしては、沖縄辺野古新基地をめぐって、ネット上の厳しい沖縄県あるいは市民運動批判があり、それをメディアが拡散し、さらに政府の強い姿勢を誘引している。あるいは放送に関しても、一部市民団体の偏向報道批判をメディアが取り上げ、それを政権が受けるかたちで放送局に圧力をかけるという構図ができた(拙著『沖縄報道』ちくま新書、参照)。

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筆者

山田健太

山田健太(やまだ・けんた) 専修大学文学部ジャーナリズム学科教授

専門は言論法、ジャーナリズム研究。主著に『沖縄報道』『法とジャーナリズム 第3版』『放送法と権力』『現代ジャーナリズム事典』(監修)。日本ペンクラブ専務理事など。