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政治でなく科学の視点を

感染症はリスク、備えを常に

加藤茂孝 元国立感染症研究所室長

 冥きより 冥き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月

 心の迷いを仏教の教えで救ってほしいと書写山の性空上人に送った和泉式部の和歌である。

 迷いの多くは、いやおそらくは全てが、見えないことが原因である。生死を含めて未来は見えない。また人の心は見えない。他人どころか自分の心さえなかなか見えない。未来については詩人のポール・ヴァレリーが見事に言い表している。「湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく」。従って未来を推測するためには、唯一垣間見える断片的な現在を眺めながら、少しは見えるようになっている過去から学ばなくてはいけない。英国の歴史学者E.H.カーは「歴史とは、現在と過去との絶えざる会話である」と言っている。

 科学は、通常の視力では見えない物質を次第に見えるようにしてきた。放射線は、そのエネルギーを光に変えることで見えるようになった。化学物質も、クロマトグラフィーや質量分析器で検出できるようになった。病原微生物も、光学顕微鏡や電子顕微鏡、培養技術などで見えるようになった。遺伝子でさえ、DNAやRNAの塩基配列がシーケンサーで見えるようになった。病原体に対抗する生体の免疫反応も、抗体検出で見えるようになってきた。

 そのように次第に恵まれてきた現代にあってさえも、科学情報が迅速に正しく分かりやすく、そして隠さないで伝えられない限り、心の不安が頭をもたげ、人々は不安・恐怖にさいなまれる。

 その恐怖は、火山爆発・地震・津波・台風などの自然災害、気候変動、原子力発電所の事故、サリン事件、新型コロナウイルスなどの新興感染症、テロ、戦争、経済恐慌・不況などで露わになる。それを少しでも減らせるのが、正しい知識・正しい情報である。マスメディアは人々の不安を減らすべく期待されてきた。しかし現実には、正しい情報が発信されず逆に不安を掻き立てていることが多い。

 この稿では、不安・恐怖を減らすための情報の在り方について、そして我々が今その渦中にいる新型コロナウイルス感染症COVID-19について、歴史から学んでおきたい。

ヒト・コロナウイルス感染症

 2020年4月7日、安倍晋三首相は非常事態宣言を発した。非常事態宣言という言葉には、軍事体制下の戒厳令のような恐ろしさと緊張感が漂う響きがある。WHO(世界保健機関)によってCOVID-19と名付けられたこの感染症はそれほど恐ろしいものなのだろうか?

 非常事態を我慢した後に、COVID-19出現以前の社会に戻れる保証はない。好むと好まざるとにかかわらず新たに出現する未知の世界に、我々は生きていかなくてはならないことを実感している。

 この感染症流行は、21世紀型のパンデミックと言うべき、過去に見られなかった新しい特徴を持ち、人類に大きな影響を与えている。我々は、意識せずして現在、世界史の転換点に立っているのだ。

 コロナウイルスは、電子顕微鏡で見た姿がコロナ(王冠)の形をしていることから名付けられた。いろいろな動物に、その動物特有のコロナウイルスが見つかっているが、ヒトにも今回の新型を含めて7種類見つかっている(表1)。

拡大表1 ヒト・コロナウイルス

 最初に見つかったのは1965年。以後4番目までは全て風邪の原因になるウイルスだ。風邪は症状の総称で、その原因になる病原体(ウイルスや細菌)は100種類以上もある。皆自分が罹っている風邪の原因を意識すらせず、ただ「風邪」と呼んでいる。1~4番目のウイルスは名前さえ専門家以外には知られていないし、その存在を意識されることもなかった。

 ところが、2002年から03年にかけて、大きな変化があった。SARS(重症急性呼吸器症候群)の出現である。これが5番目のヒト・コロナウイルスであった。

 2002年11月、中国・広東省で第1号の患者が出た。その後患者を診た広州市の医師が結婚式参加のために香港のホテルに滞在して感染を広げ、ホテルの宿泊客らがそれぞれの故国に帰って更に感染を広げた。2003年2月末、ベトナムで患者の一人を診て、新しい型の肺炎と見抜いたのは、ハノイ駐在のWHO医官、イタリア人のカルロ・ウルバニだった。この時初めて新しい病気であると認識され、SARSと名付けられた。ウルバニ医師は自らも感染し、死亡した。終息するまでの半年間に約8千人の患者が出て、約800人が死亡した。致死率は約10%であった。終息に成功したのは、WHOが出した香港と広東省への「緊急でない渡航の自粛」勧告であった。この勧告にはWHO西太平洋地域事務局の当時の事務局長・尾身茂や、同感染症地域アドバイザー押谷仁など日本人スタッフの貢献が大きい。WHOが初めて行った自粛勧告であった。

 SARSが世界に驚愕を与えたのは、2002年3月にウルバニの熱心な説得でベトナム保健省がやっと公表に同意してからである。しかし広州で原因不明の肺炎が起きているという情報は早くからWHOも把握し、中国に調査を打診したが、中国は拒否した。新興感染症発生というニュースが広がることによる経済への悪影響を心配したからである。新型肺炎であることが明らかになってからは調査をOKし、米国CDC(疾病対策センター)も協力した。しかし発表・対策の遅れは致命的で、感染拡大を引き起こした。もし極めて早期に新しい感染症の発生が報告され、調査・研究が進んでいたら、感染は広東省だけか中国国内でとどまっていた可能性がある。

 中国国営メディアは当初、SARSのウイルスはコントロールできていると伝えていた。中国人医師、鍾南山はそれを否定し、いち早く警鐘を鳴らした。SARS終息後のインタビューで、鍾は「自分を抑えることができなかった。だから、発言した」と語り、「SARSの英雄」とたたえられた。一方、公衆衛生当局と政府高官は国民の信頼を失った。言論と国家統制が厳しい中国で医学者の心に忠実であった鍾南山の勇気を何人の医師が持てたのであろうか?

 アジア開発銀行によれば、SARSによる経済的損失は中国を中心にアジア地域で3兆4千億円と推計されている。感染症の発生を隠すのは大変なマイナスであるという認識が世界に広まった。感染症対策には早期発見・早期対応が重要であることが共有されるようになった。

 6番目は2012年に発見されたMERS(中東呼吸器症候群)である。サウジアラビアのラクダからヒトに感染したが、もともとはSARSと同じようにコウモリのウイルスと推測されている。2015年、サウジアラビアを訪れた韓国人が、帰国後に韓国で広げて多くの感染者と死亡者を出した。韓国はサウジアラビアからの入国者を検疫していた。この感染者は韓国からバーレーンに入国し、カタールから帰国したためフリーパスだったが、滞在中にサウジアラビアも訪問していた。検疫で中東全域の訪問者をマークしていれば発見されていたはずである。新興感染症の難しさだが、検疫は網を少し広めに張った方が有益であろう。韓国はこれ以降、感染症対策に敏感になり、PCR検査の設備や対策人員を強化した。それがCOVID-19対策に役立った。

 2020年1月31日時点で、MERSの感染者は2519人、死者866人で、致死率34.4%とSARSよりはるかに高い。ラクダを飼っている中東諸国では少数例ながらMERSは続いている。

 そして、2019年発生のCOVID-19が7番目である。

 これら七つのヒト・コロナウイルスを病原性の強さで分類すると、肺炎を引き起こす強毒性は毒性の順にMERS、SARS、COVID-19の3種であり、風邪を引き起こす弱毒性は4種である。

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筆者

加藤茂孝

加藤茂孝(かとう・しげたか) 元国立感染症研究所室長

1942年生まれ。東京大学理学部卒業。理学博士。米国疾病対策センター(CDC)客員研究員、理化学研究所チームリーダーなどを歴任。現在は、臨床検査大手の保健科学研究所で学術顧問を務める。著書に『人類と感染症の歴史―未知なる恐怖を超えて』(丸善出版)、『続・人類と感染症の歴史―新たな恐怖に備える』(同)。