「何となく匿名」から原則の復権を
2020年07月27日
殺人事件が発生したとき、「誰が殺されたのか」は多くの国では隠されることなく、公開情報となり報道の対象でもある。誰もが事件を検証したり、援助を寄せたりできる。だが日本では、誰が殺されたのかを報じることは「立ち入りすぎ」であり、当局と専門家だけが手を触れる領域だといった意見が少しずつ強まっている。メディアが実名報道の意義を説明する言葉はしばしば空回りし、反発までも生む。突破口はどこにあるのか。
昨年8月3日、米国テキサス州エルパソのショッピングモールで、男がライフル銃を乱射し買い物客ら23人を射殺した。銃の事件が多い米国でも、20人以上が犠牲になる乱射事件は衝撃的で、全米のメディアが大きく報じた。発生場所は「ウォルマート・スーパーセンター」であること、土曜日の午前で多数の住民が現場にいたこと。テキサス州アレン在住のパトリック・クルシウス21歳が逮捕されたこと。ここはメキシコ国境に近く、ヒスパニック系の人口が多いこと。そして、命を奪われたのはどういう人たちか――。
「エルパソ乱射被害者 彼らの名を知り、彼らのことを分かろう」。地元紙エルパソ・タイムズ(電子版。以下海外メディアは原則として電子版による)はそんな見出しを掲げ、当日のうちに死亡が確認された22人全員のプロフィル記事を掲載した。多くの写真や動画が添えられた。地元テレビ局KTSMも「エルパソ・ウォルマート乱射事件被害者たち」という特設ページを設けた。
地元紙だけではない。ニューヨーク・タイムズは「エルパソ乱射被害者 このような人たちがいた」、ワシントン・ポストは「エルパソで奪われた人生」として、22人全員ではないが多くの犠牲者の横顔を報道した。雑誌『タイム』も犠牲者たちの長い記事を掲載した。国境を隔てたカナダの公共放送CBCは「エルパソ乱射被害者について私たちが知っていること」と題して犠牲者を特集し、英国の高級紙ガーディアンは「エルパソとデイトン 週末の乱射被害者たち」を掲載。デイトンとは、エルパソの事件の十数時間後にやはり米国で起きた別の乱射の発生地で、両事件の犠牲者たちの横顔をあわせて報じている。
これら欧米メディアの記事は同じ社会の市民どうしが悼む機会であり、報道メディアが媒体の中につくった献花台のようにもみえる。立ち入りすぎた余計な行為かもしれない。だが、そう言い切るにはこの悲劇は社会的すぎる。英語に「フェロー・シティズン(市民の同僚、仲間)」という言葉がある。身内ではないけれど「他人」と知らんぷりはしない。同じコミュニティーの仲間だから、フェロー・シティズンの死は私たちの悲しみであり、この社会の問題は「自分ごと」になる。自治や参加という、民主主義につながる感覚をみる思いがする。
米社会とメディアのそんな感覚を肌で感じたのが、ニューヨーク支局在勤中の2012年12月に起きた「サンディフック小学校銃乱射事件」だった。コネティカット州ニュータウンのサンディフック小学校にアダム・ランザという20歳の男が侵入し、強力な連射機能がある銃で26人を射殺した。うち20人が6、7歳の子どもたちだった。大勢の小学1年生が教室内で射殺されたこの事件は、間違いなく米史上最悪の乱射事件の一つだ。
ニューヨーク・タイムズの1面トップ記事を見て私は驚いた。題字の真下の最も目立つところ、ページの4分の1ほどの面積が大きく黒く塗られ、そこに白い文字が書かれていた。
「シャーロット・ベーコン6歳 ジェイムズ・マティオリ6歳 ダニエル・バーデン7歳 グレイス・マクダネル7歳、オリビア・インジェル6歳……」
最上部にやや小さく「ニュータウン乱射事件被害者たち」。殺された人たちの実名だった。6、7歳の子どもたち、先生、職員の計26人、そしてランザが学校を襲撃する直前に殺害した母親のナンシー・ランザ52歳の名も合わせ27人の名前を1面の中央上部に大きく掲載した。この紙面は、読者が犠牲者一人ひとりに無関心な態度を取ることを想定していない。仲間である市民のことを考え、自分に何ができるかを考えざるをえない。
その記事につけられた見出しは残酷なものだった。
「児童たちは全員、セミオートマチック・ライフルで複数回撃たれていたと当局者」
恐ろしい事実であり、特に当事者にとっては酷な内容だ。遺族を慮り「こんなどぎつい見出しをつけるなんて」と批判すべきかもしれない。だが市民は事実を知る必要がある。知らなければ、銃規制の是非をはじめ自分の意見を持ち、行動する存在になれない。この紙面が体現しているのは、報道が「犠牲者のため」以上に市民一人ひとりのためにある、ということだ。社会の一員としての追悼や連帯と、正確な事実の把握の、その両方を提供しているのだった。
ジャーナリズムの在り方を記し世界的に読まれている『ジャーナリズムの原則』(ビル・コバッチ、トム・ローゼンスティール著。現在改訂3版が出ているが、邦訳は旧版のみ)がいう「原則」のいくつかが頭に浮かぶ。
「その(ジャーナリズムの)第一の忠誠は市民たちに対するものである」
「その実務家は、自分たちが取材する対象から独立を保たなければならない」
「権力に取り込まれない」姿勢はもちろん、もっと明確な規律として「ジャーナリズムの独立」を要求する。取材相手の方々にいかに共感しても、記者はその代理人になれないと戒める。取材の現場でしばしば「この人たちの力になりたい」と願う記者にとって大変残酷でもある。痩せこけた少女を狙うハゲワシがいるとき、少なくとも原理的には、記者の仕事は追い払うことではないということになる。
今年4月4日のニューヨーク・タイムズは、米ペンシルベニア州のハバフォード大学の女子学生たちのことを伝えた。一緒に寮で暮らし、今は新型コロナウイルス感染拡大の影響で親元に一時帰宅している彼女たちの一人、タチアナ・レジオンはプエルトリコ出身の両親を持ち、奨学金のおかげでこの大学に来ることができた。実家は食品移動販売で生計を立て、コロナ禍で窮地に陥った。家業を助けるため大学には戻れないかもしれない。他方、投資家の父を持つチェース・プリーはカリフォルニア州の海が見える高級住宅地に帰り、父が仕事で行ったことがある日本に家族で避難する案まで一時持ち上がった。仲間たちの経済格差がコロナ禍によって見えてくる。女子学生たちはニコラス・ケーシー記者の取材に実名で応じ、
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