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「継承」が生み出す「断絶」

覆い隠された当事者の情念

福間良明 立命館大学教授

 毎年、夏になるとさまざまなメディアで「記憶の継承」が叫ばれる。すでに戦後75年が経過し、戦争体験を有する世代の存命者は、ますます少なくなっている。記憶が鮮明で会話に支障がない当事者となると、ごくまれである。それだけに、「いまのうちに体験を聞いておかなくては」という切迫感が生まれるのは当然だろう。実際に研究者や新聞社などによる聞き取りの作業も進められているし、修学旅行などで「語り部」に話を聞く営みも多くみられる。むろん、それらは有意義なことではある。

 だが、その営みははたして、「継承」のみを生み出しているのだろうか。ときに、そのなかで「忘却」や「断絶」が進行してはいないか。そうしたことを考えてみることも、無意味ではないだろう。言うまでもなく、体験者は現在のみならず、過去にも多くを語ってきた。それを活字化した記録・出版物は、膨大な量にのぼる。それらははたして、今日においてどの程度、顧みられているのだろうか。さらに言えば、今日の「体験者」「語り部」によって語られることは、戦後70余年のあいだに体験者らによって編まれた記録と比べて、何がどう目新しいのか。あるいは逆に、「同じような話」を現代のわれわれは彼らに強いてはいないか。

 だとすれば、「いま聞き取らなければならない」という「継承」の欲望が、かえって過去の体験者の「忘却」を生み出しているのかもしれない。さらに言えば、メディアや教育の場においては、「存命の体験者に話を聞くこと」と「過去の膨大な資料を読み解く手間を省くこと」とが、表裏一体になっていることもあるのではないか。

 戦争の記憶を掘り起こす営みは、歴史学や社会学のような学問領域だけではなく、新聞やテレビ・ドキュメンタリーなどを通じて多く積み重ねられてきた。しかし、「継承」の営みや欲望のなかで、いかなる「忘却」が生み出されてきたのかについては、意外に見落とされてきたように思われる。いま「記憶」されているものを「継承」することも、もちろん重要だろう。だが、それがさまざまな忘却を経た「上澄み」のようなものであるとすれば、どうなのだろうか。そこでは「継承」自体が「忘却」の再生産を促すことになる。だとすれば、問われるべきは、「いかなる論点が見失われていったのか」「それを生み出した社会的なメカニズムは何なのか」ということであろう。

 本稿では、戦後における「忘却」「断絶」の歴史とその社会背景を俯瞰したうえで、今日の「継承」の語りがしばしば抱え込むひずみについて考えてみたい。

拡大原爆投下後の広島市内と原爆ドーム(1945年9月下旬撮影)

「8.6」と祝祭

 1946年8月6日をはさんで3日間にわたり、広島市では平和復興祭が開かれた。前年の広島原爆から1周年となったことによる催しであった。だが、それは必ずしもしめやかなものではなく、むしろ祝祭的な雰囲気すら帯びていた。ブラスバンドや花電車、山車が市内を巡回し、演芸大会も催された。翌年8月6日の平和祭でも、「広島中心部新天地の娘さんたち七十余名」が「あでやかな衣しょうに花がさをかざ」し、「ピカツと光つた原子のたまにヨイヤサー、飛んで上がつた平和の鳩よ」(平和音頭)の囃子に合わせて、銀座通りを練り歩いた。『中国新聞』(1947年8月7日)は「歓喜でもみくちゃ こぞり讃う巷の晴姿」という見出しのもと、「至るところで盆踊りが行われ休みどころか徹夜で踊りまくろうと息ま」く人々の姿を報じていた。前日や同日の紙面には「祝 平和祭」を掲げた企業広告も掲載され、平和祭は前年以上の盛り上がりを見せた。

 今日の眼には、原爆被災日に「お祭り騒ぎ」が繰り広げられ、「祝」「歓喜」「晴姿」といった言葉が紙面を飾ることは、何とも奇異に映るだろう。なかには、その「不謹慎さ」を批判したくなるむきもあるかもしれない。だが、ここで考えるべきは、その「不謹慎さ」ではなく、なぜ、こうした「お祭り騒ぎ」が大々的に繰り広げられ、地域主要紙で大きく報じられたのか、ということである。
中国新聞記者の金井利博は、「廿世紀の怪談」(『希望』1952年7・8月合併号)と題した文章のなかで、この背後にある被爆当事者の心情について、以下のように記していた。

 原爆体験者の身になつて見れば、あんなイヤなことをいまさら想い出そうより忘れようとしてのドンチャンさわぎ、無理からぬ一種の逃避、いや或意味の心理的な抵抗でさえあつて、とやかく見識ぶつて説教する者こそ、人類史の共同便所の蓋を人まえはばからずあける厚顔な無作法者、あれを体験した者は、あんなけつたいな追憶と真正面から取つ組むことに、今でも何ほどかの心理的な努力がいるんだ、と口をゆがめるでしょう。

 毎年めぐってくる原爆被災日は、否が応でもかつての体験のおぞましさを思い起こさせる。そのことは、当事者にとって筆舌に尽くしがたい心理的負担を伴った。彼らが「あんなイヤなことをいまさら想い出そうより、忘れようとしてのドンチャンさわぎ」に走ることは、「無理からぬ一種の逃避」であるばかりではなく、「或意味の心理的な抵抗」でさえあったのである。

 そこには、祝祭イベントの機能も透けて見える。もともと、原爆被災日を期して行われたこのイベントは、過去の記憶を相互に確認し合うものではない。むしろ、市民が互いに過去から(一時的にではあっても)目をそらし合うことを可能にする場だった。それは、直視できないほどの体験の重さに根差すものでもあった。

 こうした心性は、原爆ドームへの忌避感につながった。1996年に世界文化遺産に登録された原爆ドームは、今日では「被爆の惨禍を伝える歴史の証人」「核兵器廃絶と人類の平和を求める誓いのシンボル」(『原爆ドーム世界遺産登録記録誌』)と評される。だが、戦後間もない時期の広島では、ドームに対する不快感が多く語られていた。当時の『中国新聞』では、「どこか自分のアバタ面を売り物に街頭に立って物乞いする破廉恥にして卑屈な人間の心情に通じる」「広島市のド真ん中に薄気味わるい幽霊屋敷然としてたっている旧産業奨励館のドーム」といった記述がある(1950年10月24日、夕刊)。被爆者たちからすれば、巨大な被爆遺構は自分たちのおぞましい記憶をフラッシュ・バックさせるものでしかない。それだけに、「原爆中心地のドームを七ヶ年も経過した今日あのままに放置しておくのはどうかと思う。取こわすか再建するか早くやってもらいたい」(『中国新聞』1952年8月8日)という思いが生じるのは当然であった。

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筆者

福間良明

福間良明(ふくま・よしあき) 立命館大学教授

1969年、熊本県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。専攻は歴史社会学・メディア史。著書に『「戦争体験」の戦後史』(中公新書、2009年)、『「働く青年」と教養の戦後史』(筑摩選書、2017年、サントリー学芸賞受賞)、『「勤労青年」の教養文化史』(岩波新書、2020年)、『戦後日本、記憶の力学』(作品社、2020年)など。