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「個」の力で起てよ全国の報道記者!

新聞人・桐生悠々に嗤われないために

黒崎正己 北陸朝日放送報道制作局長

 「今、この国は国民を敵と味方に選別し、治安のために自由を規制し、情報を隠蔽しています。異論を排除し、言論を統制しようとする光景は桐生悠々が生きた戦争の時代と重なります」

 これは2018年に私が制作したドキュメンタリー番組『言わねばならないこと―新聞人・桐生悠々の警鐘―』のナレーション台本の一部だ。金沢市出身の新聞記者、桐生悠々の生涯を今なぜ描くのか、当時の制作意図をこの拙文に込めた。番組は幸運にも第1回「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」の大賞に選ばれ、リメイク作品は昨年末にテレビ朝日系列各局で全国放送された。番組は書籍化もされ、悠々の再評価にわずかながらも寄与できたかと自負しているが、戦後75年の節目の夏でもあり、改めて悠々の警鐘に耳を傾けたい。

闘う新聞記者 桐生悠々

反骨のジャーナリスト、桐生悠々(金沢ふるさと偉人館所蔵)
 桐生悠々(本名政次)は1873(明治6)年、旧加賀藩士の三男として石川県金沢市で生まれた。幼くして両親と死別した悠々は早くから独立し、子どもたちに勉強を教えながら第四高等中学校(のちの旧制四高)、東京帝国大学に進学。29歳で栃木県の「下野新聞」に入り、以後「大阪毎日」「大阪朝日」「東京朝日」で活躍。長野県の「信濃毎日新聞」と愛知県の「新愛知新聞」で長く主筆を務めた。

 悠々は権力による言論統制には敏感に反応する論説記者だった。例えば、明治天皇の暗殺を計画したというでっちあげで社会主義者の幸徳秋水らが処刑された1910(明治43)年の大逆事件で政府が公判記事の掲載を禁止すると、悠々は記事とは別のコラム欄で当局を皮肉った。

 「警務部長から直接に注意したいことがあるから出頭しろと云う書面が来たので何の事かと警察部に出頭して見ると幸徳秋水の公判を記事に書いてはならぬと云うことだ、何の事だい馬鹿々々しい。現内閣はソンナに社会主義が恐ろしいのか、多寡が知れた一幸徳秋水の為に態々地方の新聞にまで手を入れようとする狼狽え方は余所の見る目も可愛相な位だ。哀願を容れて公判の記事は書かぬとしようが、ここに大書して置く、明治四三年十一月九日、社会主義者幸徳秋水らの予審決定す、内閣狼狽して常識を失う」(信濃毎日 1910年11月10日)

 また、1918(大正7)年、米騒動の全国拡大を受けて寺内正毅内閣が報道禁止を命じると、当時「新愛知」の主筆だった悠々は猛然と抗議し、倒閣の決意を表明した。

 「歴代内閣中には随分無智無能の内閣もあったが、現内閣の如く無智無能なる内閣はなかった。彼等は米価の暴騰が如何に国民生活を脅かしつつあるかを知らず、これに対して根本的の救済法を講ぜず、これに関する一切の記事を安寧秩序に害ありとして、掲載禁止を命じるが如き、誰かこれを無智無能と云わざるべき。事件、事実は新聞紙の食糧である。然るに現内閣は今や新聞紙の食糧を絶った。事茲に至っては、私共新聞紙も亦起って食料騒擾を起さねばならぬ。新聞紙たるものは此際一斉に起って、現内閣を仆すの議論を闘わさなければならぬ」(新愛知 1918年8月16日)

 社説の表題は「新聞紙の食糧攻め 起てよ全国の新聞紙!」。支持政党の違いや販売競争で日頃しのぎを削る新聞界でも言論擁護の決議が各地の新聞記者会に広がり、当時の寺内内閣は総辞職に追い込まれたという。報道統制は権力の性だ。特定秘密保護法や共謀罪法など安倍政権が報道規制につながる治安立法を強行成立させた際、私を含め新聞・テレビの記者は報道の自由擁護の一点で横断団結すべきだったのではないかと痛恨の思いがする。

 1932(昭和7)年、青年将校の一団が首相官邸に押し入り、犬養毅首相を射殺した五・一五事件も発生から1年間、報道が禁止された。そして解禁後は政党政治の弊害や財閥の横暴を批判する被告の訴えに同情的な論調が目立ち、国民の間には減刑運動も広がった。「新愛知」から再び「信濃毎日」主筆に復帰していた悠々はそうした社会の空気を真っ向から批判した。

 「こうした暴動を名誉的とするものは、名誉の意味を取り違えた変態的心理の持主である。にも拘わらず、過去においては普通人はいうまでもなく、司法当局すらも、又立法者ですらも、名誉に関する観念を誤り、少なくとも政治犯人を、普通人よりも、ヨリ鄭重に取扱って来た。かくして殉教者の名において、彼等をして誇りげに、この不名誉極まる犯罪を行わしめ、その結果として、最近には、応接に遑あらしめざる程度において、暗殺者を続出せしむるに至った。陸海軍司法当局の時代錯誤を嗤わざるを得ない」(信濃毎日 1933年5月10日)

 「嗤」という漢字には「蔑み、あざ笑う」という意味が込められている。満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退と軍国主義の高まりに異を唱える悠々の論説は、まもなく軍部の標的になる。

関東防空大演習を「嗤う」

 満洲事変から2年後の1933(昭和8)年8月11日、「信濃毎日」に悠々の評論記事「関東防空大演習を嗤う」が掲載された。演習は東京を中心に関東一円で実施され、陸海軍の航空部隊や航空母艦の艦上機が攻撃役に、陸軍の戦闘機3個中隊が防衛役にあたる史上初の大規模演習だった。軍部が総力を挙げた演習を悠々は「嗤った」

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