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コロナ禍と香港の抵抗運動 国安法制定までに起きた相克

倉田徹 立教大学法学部教授

 昨年後半、香港の巨大な抗議活動のニュースは世界を席巻した。繰り返される数十万人単位のデモ行進や、エスカレートしてゆく衝突の様子は大きく報じられた。問題は不断に複雑化を続け、全く終わりが見えないまま新しい年に入った。

 しかし、年が明けると香港への世界の関心は大きく低下した。突然襲ってきた新型コロナウイルス感染症によって、ほぼ全世界の政治・経済・社会は瞬く間に大きな行動変容を強いられた。グローバル化が嘘のように、ほぼ全ての国境が閉じられるという状況の下で、香港も多くの人々の視界から消えたのである。

 ところが、数カ月経つと香港は再び世界の注目を集めた。中国政府が突如発表し、実行した「香港国家安全維持法(国安法)」の制定により、香港は米中対立の最大の焦点に浮上した。

 コロナ禍は確かに香港の抵抗運動に重大な影響を与えた。昨年のニュースの主役は無名の香港市民たちであった。10月1日、習近平国家主席が中華人民共和国建国70周年を祝う壮大な軍事パレードを行っても、翌日の1面を飾ったのはむしろ、同日の香港のデモで高校生に実弾が発射された画像であった。しかし今、香港問題が語られるとき、その主語は主に米中をはじめとする大国の首脳の名前である。一切の手続きが北京で行われた国安法に対し、香港市民は為す術がない。しかし、国安法にせよ、米国の制裁にせよ、その影響を直接に受けるのは香港市民である。我々はこの問題を香港市民の視点から再び考え直す必要があるのではないか。

 本稿では主に今年前半、コロナ禍で大きな注目を集めなかった香港の政治に焦点を当てる。大量の人が集まるデモの実施の可否、非合法集会の取り締まりを目的とした覆面禁止法の可否―世界中でコロナ禍が浮き彫りにした、防疫をめぐる自由と統制のせめぎ合いの問題が香港にも存在し、市民も政府も矛盾の狭間に揺れた。同時に、香港ではコロナ禍の下でも様々な形で、国安法の「前奏」とも言うべき、自由に対する新たな圧迫が進められていたのである。

抗議活動の「強制停止」

 昨年6月9日、香港では「逃亡犯条例」改正案に反対する103万人(主催者側発表)の巨大デモが発生し、長期にわたる強力な抗議活動が開始された。政府は平和裏に行われる大規模デモで示される要求は拒絶し、道路占拠・議会の包囲などの実力行使を伴う直接行動は警察力を動員して鎮圧した。しかし、多数派の民意の支持が抗議活動側にある中で、強硬対応はより大きな市民の反発を招いた。当初一つの法案の撤回要求で始まったデモは、やがて行政長官の辞任要求、さらに民主化や警察の責任追及へと進み、政策批判から政権批判、そして体制批判へと上昇した。当初政府庁舎のある香港島中心部で行われていた抗議活動は、7月以降は郊外も含めた香港全土へと広がり、直接行動も政府庁舎の包囲から立法会(議会)への突入、空港・地下鉄など交通機関の妨害、政府支持者の個人や商店等への攻撃へと激化した。警察の対応も強硬化し続けた。10月には実弾による負傷者、11月には衝突による死者を出し、「攻城戦」が演じられた大学は煙に包まれた。香港の一条例の改正問題は、中国の内政問題、さらには国際情勢の大きな問題へと深刻化していった。

 問題の拡大へと落ち込んでゆくこのスパイラルの中で、11月下旬は一つの節目となった。24日の区議会議員選挙では民主派が85%の議席を獲得する予想以上の大勝利を収め、抗議活動支持の民意の強さを示した。そして27日には米国で香港人権・民主主義法が成立した。デモ参加者は当初から国際社会に支援を呼びかけており、これは香港の力で米国を動かすことに成功した成果と見なされた。この二つの「勝利」を受けて、デモ参加者は勢いづき、今年9月に予定されていた立法会議員選挙で民主派が過半数を得て、政府に抗議活動側の要求の受諾を迫ろうと企図した。

 そこに突然やってきたのが、中国・武漢での謎の肺炎の集団感染発生というニュースであった。市民の関心の焦点は防疫の問題へと急速に移った。香港中文大学のメディア学者である李立峯が、抗議活動に参加する若者が情報交換に利用してきたネット上の掲示板「連登」の書き込みを調査したところ、1月12日から21日までは67.2%が抗議活動に関する内容であったのに対し、1月22日から31日までは新型肺炎が79.3%となり、抗議活動関連は13.1%にまで減少したという(注1。香港中文大学が3月下旬に行った世論調査では、感染流行の収束後に大規模な抗議活動を行うことを支持するとする者は49.1%と、支持しない者29.6%を大きく上回った。しかし、流行中の状況下で様々な形で抗議活動を続けることについては、支持しない者が36.9%と、支持する者36.6%を上回った(注2。抗議活動は、政府の取り締まりよりも、コロナ禍によって「強制停止」となったのである。

(注1) 『明報』、2020年2月20日。
(注2) 『明報』、2020年4月3日。

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筆者

倉田徹

倉田徹(くらた・とおる) 立教大学法学部教授

1975年生まれ。専門は香港政治。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。著書に『中国返還後の香港―「小さな冷戦」と一国二制度の展開』(名古屋大学出版会、2009年、サントリー学芸賞受賞)、共著に『香港―中国と向き合う自由都市』(岩波新書、2015年)、共編著に『香港危機の深層』(東京外国語大学出版会、2019年)、共訳書に『香港の歴史』(明石書店、2020年)など。