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特ダネの記憶 「弘前大学教授夫人殺人事件」

「真犯人、涙の告白」特報 逮捕28年後の再審無罪につなぐ

井上安正 元読売新聞記者

 あれは、1971(昭和46)年6月だったから、半世紀近くも前になる。30日付の読売新聞朝刊社会面のトップは、自信の特ダネだった。「真犯人は私だ」「22年前、弘前の教授夫人殺し 刑期終えた元被告に 時効後、涙の告白」「テープ証拠に再審へ えん罪の那須さん」。計6本の見出しと、真犯人の「胸のつかえとれた、那須さんの潔白を証明したい」、弁護士の「証拠ほぼ出そろった」という談話で支えられ、文句のつけようのないスクープだった。緻密な取材をかさねて真実に到達し、誰よりも早く世間に知らせ、正義の実現につなげる。特ダネ取材はダイナミズムにあふれ、あえて言わせてもらえば、取材という営為の醍醐味がそこに詰まっていた。

「真犯人名乗り出た」突然の訪問者

真犯人が名乗り出たことを伝える1971年6月30日付読売新聞朝刊社会面。名乗り出た男との生々しいやりとりを掲載している。無実にもかかわらず服役した男性に再審無罪判決が言い渡されたのは、この記事が掲載されてからおよそ6年後だった
 そのひと月ほど前、5月29日付の読売新聞朝刊の宮城版に「来月から事実調べ開始 松山事件再審」(注1)という記事が載った。

 その日の昼前、私が在籍していた宮城県警記者クラブに、村山一夫(当時29歳)という人物が名指しで電話をしてきた。東北総局(仙台市)で記事の筆者を教えてもらったという。「松山事件の記事を読み、再審に興味がある方とみて電話しています」「ある殺人事件で真犯人が名乗り出たんです。無実を訴える人にも会って来ました」

 村山は電話をしている喫茶店へ来るようせかした。その訳は後にわかる。たれ込みには「ガセ(うそ)」も多いが、ばかにしてはいけない。仙台市一番町の喫茶店へ急いだ。上下とも白いスーツ姿が目立ち、面識はなくとも、電話の主と察しはついた。

 「無実の人が13年間も服役させられました。青森の弘前で起きた殺人です」「弁護士にも相談しています。ただ、これが新聞に載ると真犯人は世間から抹殺されます。そこを読売さんに面倒見てもらいたいのです」

 まくし立てる村山に、「真犯人はどこにいるんです」とただす。「仙台です。協力いただけるなら全部教えます」。「面倒を見るとはどういうこと」と問う。「冷たい世間の目を避けて、田舎町でラーメン店でも開いてやりたい」と返ってきた。

 私は一瞬、「厄介なことになるかも」と思い、とっさに「そうなると私の一存では決められない。東北総局で上司を入れて話し合いませんか」と水を向けた。作り話にしては真剣さが違うと感じ、なぜか「引き留める価値はある」とひらめいた。応じた村山を応接室に通し、総局長、デスクに同席を頼んだ。青森支局に勤務経験のあったデスクが事件の大筋と、冤罪のうわさがあったことを覚えていた。そのことが村山の警戒心を少し解いたようでもあった。しかし、話は「ラーメン店の開業」で堂々巡りとなった。

 長い沈黙をおいて、村山に提案した。「このまま取材させてもらって、再審請求が実現した段階で、真犯人の生活を考えましょう。それまでは、お互いに真犯人と名乗り出た人の支えになって、再審裁判を支援しませんか」「世間だって真犯人の告白の勇気をわかってくれますよ。紙面が読者の共感を呼ぶでしょう」。村山はそれまで集めた資料を包んだ風呂敷を手に口を開いた。「わかりました。その男は滝谷福松と言います。年は41です」。真犯人と告白した男の名を無造作に口にし、打ち明け始めた。「これは、いける」。なぜか冷や汗が背中を伝った。

 村山の話によると、それまでの経緯はこうだった。3カ月近く前になる3月8日の昼下がり、仙台市にある宮城刑務所の受刑者の病院「病舎」で、5人ほどの患者が、前の年に割腹自殺した作家・三島由紀夫の死について語り合っていた。強盗傷害の罪で懲役10年を勤めあげ3日後に出所するはずの滝谷が、自分の犯行について、強盗だったが実は襲った相手は女性だったことを口にした。三島ファンの村山が、「三島に比べりゃお前は女に手を出した男のクズよ」と吐き捨てた。滝谷がムッとして口走った。「オレだって人間を1人殺している」「無実の人がその罪を背負ってくれたけれど」

 「この期に及んでほら話か」。笑い飛ばした服役者の中で、村山だけが真顔だった。「無実の人が……」という言葉が引っかかった。

 「滝谷。ここを出たらゆっくり話そう。オレの出所日が決まったら必ず知らせる」。滝谷の耳に顔を近づけてそう約束し、4月25日、2人は宮城刑務所の門前で再会した。村山は赤飯を用意した妻が、生まれて間もない長男と待つ自宅に滝谷を招じ、病舎での話の続きを聞いた。

 村山は5月になって弘前へ飛び、食堂や盛り場で、事件について聞き回った。「犯人」として服役した人が、「冤罪」を訴えているが、確かな新証拠がなくてほぞをかんでいると聞いた。その悲劇の人が那須隆(当時47歳)と知ったが、ぬか喜びさせまいと、本人や家族には会わずに仙台へ帰った。

 仙台に戻った村山がさらに疑問点を聞こうとしたが、滝谷は口ごもった。滝谷は他人が罪を着て服役しても「時効は成立しているのか」と不安を持ち続けていた。村山は自分の事件で世話になった南出一雄弁護士(当時67歳)に「時効は成立している」と確認したという。その辺まで聞いて私は我慢し切れなくなり、「その男は仙台のどこに住んでいるのですか」とぶつけてみた。村山は「それは待ってください。本人に会わせます。これから弁護士と相談し、こちらから連絡します」と自分の住所と電話番号を言い残して総局を出た。向かった先が仙台駅前のビル6階の南出法律事務所であることを確認し、村山を信用した。

(注1) 日本の4大死刑冤罪事件の一つと言われる。1955(昭和30)年10月18日、宮城県志田郡松山町(現・大崎市)の農家から出火、焼け跡から夫婦と子ども計4人の遺体が見つかった。いずれの頭部にも傷があり、当時24歳だった男が逮捕。強盗殺人などの罪で起訴され、死刑が確定した。犯行当時の着衣に付着したとされる血痕鑑定などについて仙台地裁は79年12月、「新証拠」と認め、再審開始を決定。84(昭和59)年7月11日、無罪判決

告白者と対面、「真犯人」確信

 2日後、村山から「4日の夜に私のアパートで滝谷に会わせます」と電話があった。カセットレコーダーを携えカメラマンと村山宅で滝谷を迎えた。「私が滝谷です」とぴょこんとお辞儀をして長身を折り曲げるようにして正座した。自ら語るおぞましい過去とは裏腹に、淡々とした口ぶりだった。長い拘禁生活は、人間の本性を変えるのか

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