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特ダネの記憶「リクルート事件」

つぶれた事件、「朝日の責任」で報道 支局記者が掘り起こし、政界再編へ

長 典俊 名古屋テレビ取締役

 「独自に取材して、朝日新聞の責任で報道しようじゃないか」。1988年5月のある日、朝日新聞横浜支局(現総局)の取材班の部屋に集まった記者たちに、山本博デスク(当時、2013年死去)はそう話しかけた。

 約1カ月後。6月18日付の朝日新聞朝刊の社会面トップに1本の特ダネが掲載された。

 「『リクルート』川崎市誘致時/助役が関連株取得」「公開で売却益1億円/資金も子会社の融資」

 記事は、川崎市の助役(当時)がリクルート関連会社の店頭登録前の未公開株(証券取引所に上場・公開していない企業の株式)を譲渡され、店頭登録後に売り抜ける形で多額の利益を得ていた事実を報じていた。以降、リクルート側から当時の自民党首脳ら政官財界に対する株譲渡の事実が次々に明るみに出て、日本の政治と社会は大きく揺らぐことになる。

 後に「調査報道の金字塔」と言われるようになった「リクルート疑惑」報道。この調査報道は、冒頭のようなデスクの一言から大きく動き出した。端緒をとった後、当時の竹下登首相側に対する株譲渡事実を報じるまでの約4カ月間、一連の取材を担当し、記事を出稿したのは、地方支局である横浜、川崎両支局の入社7年目以下の若い記者たちだった。当時、5年目だった私もその一員として貴重な経験をした。

きっかけは警察の内偵捜査

川崎市助役(当時)がリクルート関連会社の未公開株を譲渡され、多額の利益を得ていたことを報じた1988年6月18日付の朝日新聞朝刊社会面。捜査当局が立件を断念した事件を、横浜、川崎支局の若い記者が独自取材で裏付けて特報。リクルート側から政官財界への株譲渡の事実が次々に明るみに出て汚職事件に発展するとともに、内閣総辞職につながった
 1988年3月。「(県警捜査)2課で川崎のサンズイをやっている。結構、大物だよ」。一緒にいた捜査関係者が別れ際につぶやいた。「サンズイ」というのは捜査用語で「汚職」のことだ。当時、私は、横浜支局で神奈川県警や横浜地検などの捜査当局を担当する「サツ回り」だった。そのときから県警キャップと一緒に捜査内容をつかむべく、県警や検察の捜査関係者に集中的な朝駆け・夜回りの取材を始めた。通常の汚職事件の内偵取材だ。検察側が当時、すでにリクルート社の関係者を任意で聴取していたことは、ずっとあとで知った。

 しかし、いくら夜回りをしても、捜査の中身はなかなかつかめなかった。他社も気がついているに違いない。少し、あせりを感じ始めていた4月中旬。私を含めて横浜支局のサツ回り担当記者数人が川崎支局に集まった。「なんでもいいから、川崎市政にかかわることをがむしゃらに取材してみよう」などと話し合っていたとき、川崎支局のファクスが突然、動き出した。

 「贈はリクルート」「わいろは株」

 流れてきた1枚の用紙にそれだけが書かれてあった。横浜に残った県警キャップが送ってきたものだった。

 リクルートは当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの新興企業だった。対象は政令指定都市の川崎市。川崎支局員は、おそらく駅前再開発計画に絡む事件だろうと解説した。リクルートが再開発ビルに入ることが決まっていたからだ。収賄側は再開発計画を主導していた川崎市の助役、贈賄側はリクルート、しかも賄賂は株……。そんな事件の構造がうっすらと見えてきた。株が賄賂という事件は過去にほとんどなく、まさに、バブル時代を象徴する事件になる予感がした。

 横浜支局のサツ回りは、鈴木啓一・県警キャップを含めて入社7年目以下の若手の記者ばかり。デスクは、6年生の奥田明久記者と司法担当だった2年生の堀江隆記者(現朝日新聞社執行役員)を日常業務からはずし、専従取材を命じた。警察の内偵捜査の取材といっても、捜査当局から話を聞きだせばいいというものではない。特に捜査2課の事件のケースでは、捜査側から情報が入ってくるものではなく、自分たちが取材した結果を捜査関係者にぶつけて反応を見ながら容疑事実を一つひとつ明らかにしていく、という作業の積み重ねだ。

 「ありったけのリクルートと関連会社の資料を集めろ」。山本デスクの最初の指示だった。事件取材で大切なのは「事実の積み重ね」。内部関係者の証言や内部資料が決め手とはなるが、すぐに入手できるわけではない。しかし、公開資料の収集でかなりの輪郭が浮かび上がるものだ。雑誌や書籍などの出版物、過去の新聞記事、土地・法人登記簿や有価証券報告書などの経営・会計資料、政治資金収支報告書や資産公開などの資料、開発計画の概要や議事録などの行政資料……。そして、当時はまだ十分に活用されていなかったが、情報公開制度もある。こうした資料収集は、普段の取材から「当たり前のようにすべきことだ」と言われていた。このときも経営情報(有価証券報告書など)や「川崎市・再開発地区」の登記簿、リクルートに関する雑誌資料など「オープン資料」の収集から専従班の2人はとりかかった。

 一方、鈴木・県警キャップと私は引き続き、県警や検察幹部、担当捜査員や検事らを回って、事件の概要をつかむ努力を続けた。専従班が集めてくれた資料をもとに事件の構図を検討し、賄賂の内容や趣旨、便宜供与の内容、登場人物などを捜査当局にあてて一つひとつ事実を確認していった。そして、ほぼ解明ができた5月中旬には、横浜支局と川崎支局のすべての記者を一堂に集めた会議を開き、はじけた(家宅捜索など強制捜査が行われること)ときの紙面をどうするのか、予定稿をだれがどう準備するのか、どういう取材配置をするのか、などを決めて「Xデー」(捜査の着手日のことをこう呼んでいた)を待った。

「事件はつぶれた」――調査報道へ「朝日の責任で掘り起こせ」

 その数日後のことだった。キャップが県警側から、私が検察側から、ほぼ同時に、夜回りの中で「事件がつぶれた」との衝撃的な情報を得た。言葉にできないほどのショックだった。2人でいきつけの居酒屋にいき、ひどく酔っぱらった記憶が残っている。

 私が回っていた検察側の関係者は、それまで「一般論だが」と言いながら、株をめぐる汚職事件の意義を前向きに話してくれていた。しかし、ある時期を境にネガティブな言い方にかわり、事件の難しさばかりを語るようになってきた。その最大の理由は、贈賄側が3年の時効期間をすぎており、供述を得たり証拠を固めたりするのは任意捜査では難しいということだった。

 未公開株の譲渡による利益提供を問うには、①贈賄側の「贈賄行為」の認識が必要②株価については値段が下がって損をする場合もあり、自己責任で株を売買した経済行為であるという主張が成り立つ③未公開株の譲り渡しは商慣習として経済社会で容認されており、一種のステータスシンボル――というような隘路があるとして、こうした壁を乗り越えるには、任意捜査では難しく、検察首脳が立件に対して消極的だと話した。

 当時の取材ですでに、川崎市の助役のほか利益供与を受けていた側に大物政治家の名前が挙がっていた。捜査関係者は、リクルート側弁護団の大物ヤメ検(検察官をやめて弁護士になった人)の存在をにおわして、「どうしても(上の)ゴーがでない」「政治的圧力に屈した」「もうあきらめた方がいい」と怒りを込めて話した。事件というものが、政治的な力学で動いている、ということを初めて知ることになる。

 「つぶれた」ことを知って数日後、記者が集まっていた取材部屋に山本デスクが顔を出した。10畳ぐらいの部屋で、「川崎・リクルート」関係の取材資料が山になっている。その中で、落ち込んでいる私たちを前に、デスクが話し始めた。

 「捜査はつぶれたが、リクルートと助役はどう見ても灰色じゃないか。株に絡む疑惑はこれまでも何度もうわさに聞いていたが、今度は初めてそれが明るみに出るチャンスだと思う。ここでやめてしまったら、すべては闇から闇に葬られてしまう」

 何を言い出すんだ、と私は驚いた。メディアの世界では当時、「つぶれた事件」を記事にするという発想はまったくなかった。それでも、私たちは、捜査関係者に「なんとかこの事実を書けないものだろうか」と相談していた。しかし、県警関係者からも検察関係者からも、「捜査当局はなんの支えにもならない」「書いたら、絶対、名誉毀損(で訴えられる」「訴えられても、何もしてやれない」。記事化は無理だとあきらめていた。

 「絶対に訴えられます」「捜査当局からやめろと止められています」。私もキャップも強く主張した。しかし、デスクはさらに続けた。

 「こんなぬれ手であわはおかしいと思わないか。おれたち庶民は毎日、一生懸命働いて金をかせいでいる。しかし、助役は、なんの苦労もしないで、株をもらって売るだけで巨額の富を手にしたんだ。庶民のだれもが納得しないだろ。独自に取材して、朝日新聞の責任で報道しようじゃないか」

 この段階で、捜査当局を主な取材対象とする通常の「サツ回り」取材から、捜査当局には頼らない、朝日新聞の責任で直接、証拠・証言などを集めて事実を積み重ねていく、いわゆる調査報道の手法に切り替えることになった。それは当時の支局の記者たちにとって、まったく未知の経験でもあった。

決定的な資料を入手

 当時の支局の記者たちは、調査報道と言われても、何をどうしていいかもわからない。しかし、大変な作業になるというのはわかっていた。これまで捜査当局取材で聞いていた内容をすべて自分たちの取材で改めて裏付けをとらないといけないからだ。しかも、訴えられた場合に、勝訴できるだけの証拠を自らの手で固めないといけない。そんなことができるのか――。先の見えない道を手探りで進んでいくようなものだった。

 あとから聞いた話だが、デスクも「だめでもともと」という考えがあったらしい。そのため、多くの人数は投入せず、取材は最小限の人数でやっていくつもりだったようだ。しかも、朝日新聞には夏の高校野球という最大の主催行事があり、7月に入ると支局を挙げての取材が始まる。人も時間も限られた中での「調査報道」のスタートになった。

 取材は専従班だった2人を中心にして、若手記者たちも取材に加わった。方針として確認したのは、①改めて公開資料も含めた客観的資料を集め、関係者への徹底したインタビューで証言を積み重ねる②決定的となるブツ(証拠)を入手する――の二つだ。

 調査報道の手法に切り替えて、試行錯誤しながら約1カ月。関係者の取材過程で、私たちはあるリストの存在にたどり

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