地元4紙編集局長座談会「この10年、これからの10年」
2021年02月21日
2021年3月11日。関連死を含め死者・行方不明者が2万2千人を超えた東日本大震災から丸10年となる。戦後最悪の被害をもたらした自然の脅威に岩手、宮城、福島の被災3県の地元紙はどう立ち向かったのか。4紙の編集責任者にこの10年を振り返ってもらうとともに、被災地の今を語ってもらった。(座談会はリモートで実施。聞き手は、Journalism編集長・久保田正)
――地震発生時、どんな状況だったのでしょうか。振り返っていただけますか。
しかし、2回目の揺れで全ての機能が停止しました。自家発電機がなかったものですから、当時。それでも新聞は発行しなければならないということで、全ての面建てを震災、津波に切り替える判断をしたわけですが、全く見通しが立たない状態でした。非常時の災害援助協定を、東奥日報社(青森)と秋田魁新報社と結んでいました。距離的に近い秋田方面は渋滞で断念、東奥日報にお願いして、北に向かいました。整理班には、到着後、メールで記事と写真は送りますということで、東奥日報で4ページの新聞をつくることができました。盛岡に到着したのは12日の午前7時か、7時過ぎ。盛岡市内ですら配り終えたのは12日の夕方でした。紙齢は絶やしませんでしたが、瀬戸際の状況でした。岩手県内の状況など詳報はほとんど触れることができず、「死者多数」。県内の写真がなければ何ともならないということで、11日の19時ぐらいに、1枚の写真が届きました。久慈支局からの写真でした。その1枚でかろうじて新聞制作を続けることができました。
河北新報・今野 メディアセンター長という、フィーチャー面や特集面を制作するポストで、本社6階にいました。緊急地震速報が鳴った後に強烈な揺れが来て、3~4分ぐらいでしょうか、机の下に隠れましたが、ロッカーとか倒れてきて、瞬間的についに予測されていた宮城県沖地震の再来かと思いました。中庭に退避して、30分後ぐらいにフロアに戻りました。しばらくしたらNHKの映像で、岩手に津波ということで、宮城県沖地震どころの話ではないなというのがそのときの感じです。夜になって、今度はNHKでの自衛隊の映像で、流出した漁船用の重油に引火して気仙沼が全域火の海になっているのを見て、1年前まで気仙沼の総局長を務めていたので、気仙沼は全滅だとさえ思いました。
新聞制作は、新潟日報社と、1カ月前に緊急時支援協定の訓練をやったばかりということもあり、整理記者2人が車で向かいました。本当にそのときは新聞ができるのかという気持ちと、何としても発行しなくちゃいけないという気持ちと両方でしたけど、午前0時過ぎに衛星回線を使って組み上がった新聞のゲラが来たときに、ああ新聞を絶やさずにできたなと思いました。
後から聞いた話ですが、仙台市内の小学校の体育館に避難していた販売店の年配の女性が午前3時過ぎにむっくり立ち上がったそうです。真っ暗な中、新聞配りに行くんだという。周りの人が、危ないし、新聞ができているはずがないからやめなさいって言ったらしいんですけど、女性は、私だって河北新報の一員だと。それで配ってくれたという話を聞きまして、我々、編集の人間は、記事書いてりゃ新聞ができると思い上がってましたけど、新聞っていうのはいろんな人の関わりでできるんだというのを実感しました。読者から、次の日にポストにポトンと新聞が落ちる音を聞いて、ああ、世の中まだ動いてるんだ、と我に返ったという手紙をいただき、本当に新聞出せてよかったと思いました。
福島民友・小野 当時報道デスクで、非番だったんですけど、統一地方選の打ち合わせが午後3時に入ったので、会社に出てきたところで、被災しました。停電したので、自家発が動き出した中、安否確認を進めました。この時点で事故報告はなかったんですが、沿岸部の南相馬の若い記者が、音信不通だと、夕方になって支社長から電話が入りました。自家発を動かすバックアップ電源が、停電が長引いたため、予想以上に早く消耗してダウン、整理システムが動かない中で偶然、整理部経験のあった常務が読売新聞東京本社に出張していたため、読売の協力で特別紙面8ページを発行することができました。遅版には、津波で壊滅した相馬市沿岸部の写真が支局長から私の携帯に届き、1面トップに掲載。奇跡的に沿岸部の被災地にも12日付朝刊は配られました。双葉町に昨年開館した県のアーカイブ施設に保管されています。
一方、行方不明となった相双支社の熊田由貴生記者は、支社長の安否確認に答えた後、前日、前々日の津波注意報時に向かった海岸沿いのポイントに向かったとみられます。遺体が見つかったのは約1カ月後。その後の毎日新聞の地元記者の取材で、熊田君が海の方に向かおうとする地元の人に、手でバツ印をして、「こっちに来るな」というシグナルを送っていたことがわかり、記事にしてくれました。津波による殉職という、悔やみきれない事態と反省、教訓は、その後の社員教育の中で繰り返し伝えています。
福島民報・安斎 私は郡山本社の報道部長でした。郡山は震度6弱でしたが、すぐには安否確認ができない支社局がたくさんありました。一番大変だったのが小名浜支局です。支局長は、小名浜港に向かい、魚市場2階の事務所にいました。津波が1階の上の方まで来ており、撮った写真が翌日の1面を飾りました。ここまで津波は来ないだろうと思って止めた車は流されて、500メートルも離れたところで見つかりました。夢中でシャッターを切り続けたそうですが、後から恐怖がこみ上げてきたと話しています。
新聞発行は、印刷工場が冷却水、配管の断裂で水浸しの状態で、発行できないという危機がありましたが、32ページ印刷できるところを16ページにして、降版も3時間以上繰り上げ、紙面をつくりました。その後、インクや紙の不足で8ページという日もありましたが、紙齢を絶やさずに紙面をつくり続けることができました。
――経験のない大災害に直面し、地元メディアとして、使命、役割をどのように考えて報道、発信をされたのでしょうか。
今野 直後はとにかく、あれだけの災害だと、正確な情報はライフラインだとすごく感じます。今コロナで正確な情報って何かというのもありますが、結局信頼される情報のところに集まってくるということで、やはり新聞社の役割って大きい。その後は、自分たちが住む、東北の人々と一緒に復興へ向かうということで、寄り添うことが大事だと思います。
私は2年目から報道部長を4年間やりましたが、確固たる信念があったかというと、分かんないわけですよ。悩みながら日々の新聞をつくるしかない。でも、それでいいんじゃないかなと。被災者も悩んでるし、書く記者も悩んで書けばいい、むしろ悩まないでこういう震災のことを記録する記者がいたら、そんな記事は読みたくない。こちらも悩みながらやっていくしかないんだろうと思います。
もう一つ、マンネリで何が悪いという開き直りの姿勢で、地元紙っていうのは、しつこく書いていく必要がある。関連死を含めて2万人以上が犠牲になった大災害が一つあったという記憶だけでは、10年たつと忘れます。だけど、一人ひとりが犠牲になった災害が2万件以上あったとなると、書き尽くせてないんですよ、全然。だから10年で終わりなんていうことはあり得なくて、これからも一人ひとりのストーリーを書き続けていくという地道な取り組みしかないのです。
小野 被災者の生活を支えること、生きるための情報を伝えることが初期の最優先でした。原発事故の影響もあって物流が止まった県内で欲しいものというと、やはり生活情報です。だから「生活情報」のページをつくって届けました。それだけで2ページを超える日もありました。
それから、最大16万人といわれる避難者であふれた避難所は、どこに誰がいるのか分からない中、できるだけ多くの集合写真を連日掲載して居場所を伝えました。避難所では、新聞を持っていくと、奪い合う状況が起きていたので、原発事故関連の情報をできるだけ伝えつつ、放射線量のモニタリングが始まると、できるだけ多くの測定値と、その意味合いをしっかりと伝えました。
安斎 発災直後から、「避難所からの声」というコーナーをつくり、避難されている方の声を丁寧に拾う取材をずっと続けました。新潟への避難者が多かったので、新潟日報社の協力で新潟に避難された方の声も載せました。有事の際の地方紙連携のひとつの形と言えるかもしれません。
生活情報の重要性が分かったのも、震災がきっかけです。避難所だったり給水所だったり給油所だったり、医療機関がどうなっている、金融機関がどうなっているという分類をして、毎日14人ぐらいを投入して、細かい情報を載せました。
震災から10日たたない3月19日の段階で、県警本部が公表している行方不明者のリストを全て載せました。約3300人、名前も片仮名だったり名字だけだったり、断片的な情報が県警のホームページに載っているんですが、それをそのまま載せるという紙面を1ページつくりました。その日だけで168人の所在などが分かりました。県警にも、氏名を載せることで所在や身元などが判明するケースがあるということを認識してもらったと思います。
川村 当時は何をどのように伝えればいいのかという葛藤が取材記者にも編集幹部にもありました。現地に取材に出向いた記者は、あまりにも悲惨な状況に立ちすくんでしまう。そんな中、発災2日目の12日。陸前高田の避難所から帰ってきた記者から、避難者の名簿が貼ってあり、人だかりができているという情報があがってきました。デスクが敏感に反応しました。陸前高田だけでも(避難者名簿の掲載を)やってみるのはどうでしょうかという提案がありました。名簿は、名前が解読不能とか、片仮名とか、これをどうするのか、当時の編集局長とも相談し、あるがまま伝えることになりました。陸前高田の避難所の名簿からスタートし、紙面化されることで、次々と別の避難所でも、名簿の貼り出しが始まりました。避難所の名簿をデジタルカメラに収めて本社に送る、送信手段がなければ、メモリーカードを本社に記者が持ち帰る。現場の記者たちには、名簿報道が、自分たちがやらねばならない仕事なのかという疑問はあったと思います。ですが、避難所に届く避難者名簿の紙面をくしゃくしゃになるまで見る被災者の姿を見て、地元紙として、県紙としてやらなければならない仕事はこれだ、と変わったと、多くの記者が証言しています。結果的には22日間で5万人、震災初期の報道とすれば、これに全力を傾けました。
大災害は全てそうですが、人と人を分断する、地域のコミュニティーが断絶する、情報が断絶する。この断絶をいかにつなげるかは、やはりそこに根を張った、地べたを這う取材活動をやっている地元紙だろうと思います。
――初期の報道から10年、伝える情報はどのように変わってきたのでしょうか。
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