地元4紙編集局長座談会「この10年、これからの10年」
川村 当時は何をどのように伝えればいいのかという葛藤が取材記者にも編集幹部にもありました。現地に取材に出向いた記者は、あまりにも悲惨な状況に立ちすくんでしまう。そんな中、発災2日目の12日。陸前高田の避難所から帰ってきた記者から、避難者の名簿が貼ってあり、人だかりができているという情報があがってきました。デスクが敏感に反応しました。陸前高田だけでも(避難者名簿の掲載を)やってみるのはどうでしょうかという提案がありました。名簿は、名前が解読不能とか、片仮名とか、これをどうするのか、当時の編集局長とも相談し、あるがまま伝えることになりました。陸前高田の避難所の名簿からスタートし、紙面化されることで、次々と別の避難所でも、名簿の貼り出しが始まりました。避難所の名簿をデジタルカメラに収めて本社に送る、送信手段がなければ、メモリーカードを本社に記者が持ち帰る。現場の記者たちには、名簿報道が、自分たちがやらねばならない仕事なのかという疑問はあったと思います。ですが、避難所に届く避難者名簿の紙面をくしゃくしゃになるまで見る被災者の姿を見て、地元紙として、県紙としてやらなければならない仕事はこれだ、と変わったと、多くの記者が証言しています。結果的には22日間で5万人、震災初期の報道とすれば、これに全力を傾けました。
大災害は全てそうですが、人と人を分断する、地域のコミュニティーが断絶する、情報が断絶する。この断絶をいかにつなげるかは、やはりそこに根を張った、地べたを這う取材活動をやっている地元紙だろうと思います。
――初期の報道から10年、伝える情報はどのように変わってきたのでしょうか。
小野 地元としては原子力災害が継続していたので、大量のニュース報道と過去の検証、今後どうなるのかという分析を並行して進めることで手いっぱいでした。初期は、放射能被害の実像を伝えること、それから原発事故が危機を脱して新たな放射性物質の大量放出がなくなった後は、放射線の意味とか、人体や食品への影響に関する情報を伝え、チェルノブイリなどの先行事故との影響の比較などを通して、福島への誤解を解く報道に力を