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津波常襲地にある地元紙の責務 いつまでも地域の声を聞き続ける

鈴木英里 東海新報社代表取締役

 三陸は〝津波常襲地〟である。

 小社の現社屋が、大船渡湾(岩手県大船渡市)を見晴らす高台に建つことと、これは無関係ではない。そのことがはっきりと証明されたのは、東日本大震災の時だった。

 2011(平成23)年3月11日、午後2時46分。会社でその日の原稿を書き上げ一息ついていたところを、尋常ならざる揺れに見舞われた。

 外に飛び出した社員たちの不安げな瞳は、一瞬ぶつかり合った後、一斉に東を向いた。湾に突き出した岬が音を立てて崩れ、土砂が大きな水しぶきを上げて海中に沈んでいった。大地は、なおも揺れ続けていた。

 湾口防波堤を見つめたまま、今は亡き先代の社長が低く呟いた。「津波が来る……間違いない」

 その後に見たものを、今更ここに記す必要はあるまい。

 われわれがその日の午前中に取材で訪れた場所――〝さっきまで〟存在していた風景は、文字通り消失した。

地域の役に立てぬなら

 その日の夜、社に戻ることができたメンバーは互いの生存を喜び合う暇もなく、号外の製作にあたった。

 当時、小紙の発行部数は1万7000部。社員は約35人。岩手県の沿岸南部(大船渡市、陸前高田市、住田町)で約7割の購読シェアがあった。コピー機を使って印刷できた号外(A3判)は2000部と、通常の8分の1程度に過ぎなかったが、皆で手分けし、開設された避難所に配れるだけ配った(紙面1)。新聞販売店はほぼ被災し、個人宅への配達は絶望的な状態だった。

紙面1 東海新報2011年3月12日付号外

 私を含め、家を失った社員も多かった。親しい人たちの安否もわからない。それでも、会社は1ミリの被害も受けなかった。新聞が刷れる─途方にくれずに済んだのは、目の前にやれることがあったからだ。

 小紙は1958(昭和33)年創刊の日刊紙である。しかし、そのわずか2年後、南米チリを震源とする大地震が発生し、日本に押し寄せた「チリ地震津波」によって、港のそばにあった社屋が被害を受けた。

 大手紙が続々と情報を伝えるなか、東海新報は地元紙でありながら5日も発行できなかったと、創業者である先々代は悔やみ続けていた。

 現社屋が高台にあるのはこのためだ。さらに先代は1200万円をかけ、社内に自家発電機を設置した。東日本大震災の直後、何日も全戸停電が続く中で(通常の半分となる4ページとはいえ)新聞を発行し続けられたのは、単なる幸運ではなかった。

 「あんな不便な山の中に引っ越すなんて」「使うかどうかもわからないものに大金かけて」と冷笑されても、「津波は絶対にまた来る。そんなとき地域の役に立てなかったら、地元紙なんか〝便所の紙〟以下だ」とはねつけた先代の決断が、初めて意味をなした。

 ともかく、われわれには仕事がある。私たちよりもっと大変な人がいる。〝隣人〟たちが苦しんでいるとわかっていて、立ち止まれる職業ではない。そう気づかされた。

無我夢中で駆け回る

 とはいえ、発災直後の新聞製作は何から何まで手探りだった。なにせ、前回の大津波は51年前。経験者といえるのが当時69歳の先代社長しかおらず、その社長とて高校3年のころの出来事なのだ。誰も、大規模自然災害に見舞われた中で新聞を作った経験がない。

 右往左往しながらも、編集部は「人々が知りたいのは、何よりも家族や友人の安否だ」と考えた。津波の発生が平日の昼だったため、家族が一緒に避難できているとは限らない。移動手段がなく、電話もネットも通じないから、隣町のことさえわからず、誰もが不安な日々を過ごしていた。

 地域の避難所は120カ所以上にのぼったが、記者もそうでない社員も関係なく、手分けして情報収集にあたった。張り出された避難者名簿を撮影し、会社に戻ったら、その写真を見ながら名前をパソコンで打ち込むのだ。

 名簿は手書きだから、たまに判別できない文字もある。そういう部分は黒丸(●)で示した。たとえば「渡辺●隆」というように。知っている人なら、避難場所や前後の人物名から、「うちの父かも」などと推察できる可能性があると考えた。とにかく手元にあるものは全部のせよう、そう決めた。

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