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ニヤニヤと書くかニコニコと書くか あなたは無意識に選択している

森達也 映画監督、作家

 最初に告白する。僕はきわめて中途半端なテレビ・ディレクターだった。性格や技量について、ではない。いやそれもきわめて中途半端ではあったけれど、中途半端であったことの最大の問題は、(表現の一分野である)ドキュメンタリーと(事実を伝える)報道という二つのジャンルを、しっかりと峻別しないままに自分のテリトリーにしていたことだ。

 テレビには調査報道という枠がある。あるいはデイリーのニュース番組でも、特集というコーナーがあった(最近はあまり見かけない)。ちなみに調査報道を看板にする番組も、僕が現役のころは『ザ・スクープ』などいくつかあったけれど、今は『報道特集』くらいだろう。調査報道が存在感を示せなくなったことはジャーナリズムとしてのテレビが脆弱化したことのひとつの証左だと思うが、今は先を急ぐ。

 『ニュースステーション』や『NEWS23』の特集は、当時の僕にとって重要なフィールドだった。並行してドキュメンタリーも撮っていた。自分の中では明確な差異はない。なぜならどちらのジャンルにおいても、公正中立であることは大前提であると思っていたからだ。手法もほとんど変わらない。テーマが違うだけだと思っていた。

 まだ駆け出しのAD時代、最初に現場で教えられたのは、カメラから身を隠す技術だった。現場ではカメラマンの背後にいるように心がけろ。ただしいきなりカメラが向きを変える瞬間がある。間に合わないと判断したときは、何食わぬ顔をしてたまたまその場にいた通行人のように振る舞え。あわてる様子が映り込むことがいちばんだめだ。先輩ディレクターの口癖は「黒子に徹しろ」だった。常に客観性を忘れるな。なぜならドキュメンタリーは中立であらねばならない。俺はこれまで自分の息遣いすら作品に入れたことはない。わかるか。それがドキュメンタリーだ。

 補足せねばならないが、先輩たちより二回りほど上の世代の時代、つまりテレビ黎明期、NHKで吉田直哉が録音構成のドキュメンタリーを量産し、田原総一朗が東京12チャンネル(テレビ東京)のゴールデンタイムで主観的で悪辣なドキュメンタリーを発表し、TBSを退社した萩元晴彦と村木良彦、今野勉たちがテレビマンユニオンでラジカルなドキュメンタリーを制作し、牛山純一が日本テレビで大島渚や土本典昭らと社会派ドキュメンタリーを作りながらタブーに切り込み、RKB毎日放送で木村栄文が現役のヤクザを被写体にしながら自身がディレクター役として出演するドキュメンタリーなどを発表していたころは、中立性や客観性などに誰も価値を置いていなかったはずだ。でもその後に大きな影響力を獲得したテレビが圧倒的な存在感を持つメディアとなるにつれ、言い換えればテレビ局が優良企業となる過程と並行して、ドキュメンタリーは毒を抜かれ、リスク回避の傾向が強くなり、中立公正で客観的であることが前提になってしまっていた。

 ただし、そうした認識は後付けだ。新米ディレクターだったころの僕はそんな歴史を知らないまま、先輩ディレクターたちの言うことを額面どおりに受け取って、公正中立であることはテレビ・ドキュメンタリーの神髄なのだと思い込んでいた。だからこそドキュメンタリーとジャーナリズムの二つを、違和感なく自分のフィールドにすることが可能だった。

テレビがオウムで犯したタブー

坂本堤弁護士一家殺害事件の直前に同弁護士の教団批判を取材したビデオをオウム真理教幹部に見せていたことを認めたTBSの緊急記者会見。手前が磯崎洋三TBS社長=1996年3月25日、東京都港区赤坂

 その意識が変わったのは1996年。地下鉄サリン事件後のオウム真理教の信者たちを被写体としたドキュメンタリーを撮っていた僕は、2回のロケを終えた直後に、所属していた共同テレビジョンのプロデューサーから撮影についての懸念を伝えられ、やがて中止を言い渡された。これには伏線がある。TBS事件だ。

 1989年10月26日、オウム真理教を批判する特集を翌日に放送する予定だったTBSのワイドショー『3時にあいましょう』のプロデューサーが、局を訪ねてきたオウム幹部たちに放送前の坂本堤弁護士のインタビュー映像を見せ、要望に応じて放送を断念した。この9日後に坂本弁護士一家殺害事件が発生する。関連した可能性は高い。しかしこの経緯が明らかになったのは1996年3月25日。つまりTBSは7年近く沈黙していた。

 事態が明らかになると同時にTBSへの批判は過熱した。磯崎洋三社長は緊急記者会見を行って謝罪しながら、番組プロデューサーの懲戒解雇処分を発表し、『3時にあいましょう』の後続番組だった『スーパーワイド』などワイドショー番組を終了させるだけではなく、情報系番組を管轄していた社会情報局も廃止された。

 しかし批判はおさまらない。大きな論点は二つ。一つは放送前の素材をオウム幹部に見せたこと。二つめは、こうした事実があったことを隠していたこと。

 二つめについては批判されて当然だが、一つめの論点については、もっと丁寧に考えるべきだ。この特集においてオウムは当事者であり、自分たちも取材されている。その当事者が放送前に編集を確認したいと求めることは当たり前だ。新聞や雑誌など活字媒体においては、かつてはインタビューした相手にゲラを見せないことが通常だったが、近年は(「」〔カギカッコ〕の中にだけ限定される場合もあるが)ゲラのチェックは普通になった。でもテレビは昔も今もチェックさせない。当事者であっても放送前に見せてはいけないとするその理由は、紛糾することがほぼ予想できるからだ。特にテレビは撮影から放送まで時間の余裕がない。報道やワイドショーであれば、当日か翌日くらいまでが情報としての賞味期限だ。取材対象と編集について合意するために協議する時間の余裕はない。つまり「見せてはいけない」は自分たちの都合なのだ。

 しかしこの時期、放送前の映像を見せたTBSは公正中立原則を踏み外したとの指摘が多かった。まったく意味がわからない。もしも本気で公正中立を目指すのなら、インタビューした相手すべてに編集済みの映像を見せてチェックを受けるべきだ。それが不可能であるからこそ、テレビはオンエア前の素材は外部に見せてはならないとのルールを掲げた。いわば苦し紛れなのだ。でもその自覚がない。自分たちの都合がいつのまにか前提になっている。

萎縮を進行させたメディア

 同時にこの時期、激しくTBSを叩きながらメディアは自らの萎縮を進行させた。なぜなら地下鉄サリン事件以降、オウムは視聴率や部数に大きく貢献するキラーコンテンツとなっていた。タイトルにオウムの3文字が入るだけでテレビは高視聴率が約束され、活字媒体は高い部数を達成することができた。だからこそ各メディアは常軌を逸した取材を続けていた。危険性を煽れば煽るほど視聴率や部数は上がるのだ。オウムは核兵器を所有していると報じた週刊誌がある。撮影に来て祭壇の仏具をこっそり持ち帰ったテレビクルーを僕は知っている。オウム施設内で撮影を続けていたからこそ、他のメディアの隠し撮りややらせまがいの取材は日常的に目撃し続けていた。ここまでやるのかとあきれた。オウムという悪の特異点に対峙することで、常軌を逸した取材についての抑制や後ろめたさが消えていたのだろう。でも叩かれれば埃が出ることは、多くのメディアが内心で自覚している。だからこの時期、激しくTBSを叩く過程と並行して、メディアは自らの萎縮を進行させた。だって明日は我が身なのだ。

 こうしてこれ以降、キラーコンテンツだったオウムはメディアにとって要注意案件となり、さらにオウム関連の番組は一気に減少し、幹部のインタビューをテレビは放送しなくなった。理由はオウムのプロパガンダになるから。これには脱力するほどにあきれた。このロジックを使えば何も報道できなくなる。そしてこの予感は的中する。

 TBS事件から約9カ月後の1996年12月、左翼武装組織のMRTAが在ペルー日本大使公邸を占拠し、日本大使館員や日本企業のペルー駐在員らが人質となる事件が起きた。占拠は4カ月に及び、共同通信の原田浩司カメラマンに続いてテレビ朝日系列局の人見剛史記者が単独で公邸内に潜入してMRTA幹部へのインタビューを敢行したが、2人の行動は大きく批判され、テレビ朝日は人見記者が撮ったMRTA幹部へのインタビュー映像を、放送したら彼らのプロパガンダに協力することになるとの理由で封印を決定して伊藤邦男社長は会見で謝罪した。このときは脱力しすぎて寝込むほどにあきれた。

 ……ちょっとだけスピンオフのつもりが踏み込みすぎた。ただしこのスピンオフの方向も、今回の趣旨と本質は共有している。TBS事件直後に僕を呼び出した共同テレビジョンのプロデューサーは、凶暴で冷酷な

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