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私はジャーナリストなのか とらわれずに残したいこと

吉田千亜 フリーライター

 パソコンに向かったところで「さてどうしよう」と悩んでいる。「女性記者の現在地」「記者としてのやりがい」という寄稿の依頼をいただいた。若いジャーナリストたちへのメッセージにもなる、とのこと。真摯に書きたいと思う。そもそも、自分を「ジャーナリスト」と確信していない話から始めて良いだろうか。

 書く仕事を始めたのは2006年のことだ。01年から出版社に勤務していたものの、編集職ではなく、デザインの仕事をしていた。さすがに今は違うようだが、在職当時は、女性のみが制服着用という出版社だった。

 小学生の頃から「書く仕事がしたい」と思っていた。本が好きで、小説も詩も散文も好きで、将来の夢を聞かれると「活字に関わりたい」と言い続けていた。

 今はなき雑誌「オブラ」(講談社)の紀行エッセイで賞をもらったのは23歳の頃だった。フロッピーに保存された、直指庵(京都)の「想い出草ノート」と母親について書いたエッセイは、もう読むことはできない。その受賞を履歴書に書き入れ、出版社をやめて子どもを育てながら、編集プロダクションの下請けライターとして細々と働いていたが「ジャーナリスト」になるとは思っていなかった。むしろ、ずっと、小説を書きたいと思っていた。

 4月3日、いわき市で「福島浜通りの震災・原発文学フォーラム」に招かれ、桐野夏生さん、ドリアン助川さんと鼎談した。憧れの大作家を前に、ますます、分からなくなった。一体、私は何なのか。16年に『ルポ 母子避難』(岩波新書)、18年に『その後の福島』(人文書院)、20年に『孤塁 双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店)を上梓した。今も、肩書を聞かれると、心の中では「なんでもいいんです」と思ってしまう。

「記者」か「支援者」か

 「あの人はジャーナリストじゃない」と、私はある新聞記者から言われたことがある。伝聞なので真意は分からないが「ジャーナリスト」ではなく「原発避難者の支援者」だと、その人は私を捉えていたようだった。というよりは「プロではない」と言いたかったのかもしれない。実際、私は地元で避難者の交流会を開き「支援者」ではあった。ちなみに、私は誰かの支援ができた実感は一度もないため「支援者」と自ら名乗ったことはない。「ジャーナリストではない」という言葉を聞いて「ジャーナリスト」の定義を調べたりもしたが、まあいいか、と思い直した。

 平野啓一郎さんの『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書)という本が好きなのだが、そこには、森鷗外が「仕事」を「為事」と書く発想が好きだと書かれていて、「職業というのは、何であれ、その色々な『為(す)る事』の一つにすぎない」と太字で強調されている。私もこの考え方が好きだ。肩書によって、他人から本質を規定されても、私は私以上にも以下にもなれない。

 『ルポ 母子避難』は確かに、「支援者」として出会った母親たちが借り上げ住宅から追い出されることを阻止したい、そしていずれ歴史から消されるだろう、という危機感を持って書いていた。今は私にとって大切な友人になっている人たちのことだ。それがジャーナリズムではない、プロではない、と言われても私は良い。借り上げ住宅からの追い出しを阻止できなかったことは悔しさしかないが、少なくとも原発避難をした子どもたちが、いつか当時のことや親のことを知りたいと思った時に、手がかりになるものは、残せたのではないかと思う。

 「記者」か「支援者」か、はっきりしろと問われることは、同業者からよりも、むしろ、被害を受けた人から問われることのほうが苦しかった。「支援者」だと思って信用して話したら書かれた、ということは絶対にしたくなかった。もちろん「原稿化しても良いですか」と断った上で書くが、それでも知らずに傷つけてしまうのではないかと怖い。

 今は、書き手としての私を前提に取材を受けてくれる人がほとんどになり、心配は少しだけ減ったが、いわゆる「支援者」としても原発事故に関わっていた頃は、「立場を利用している」「裏切られた」と被害当事者に思わせたくなかった。だから、被害側の人が「書いてほしくない」ということは絶対に書かない。『孤塁』に登場した双葉消防本部の消防士66人全員にも「書いてほしくないことは書かれていないか」を何度もしつこく確認した。それがジャーナリズムの作法ではなかったとしても、プロらしからぬと言われても、誰かを傷つけ、信頼が壊れるくらいなら、それで良いと思っている。

 思えば昔から、手紙を書くことが大好きだった。赤面症だったこともあり、人前で話すことも苦手で、心の内は文字にしないとうまく伝えられないのだ。小学生の時はもちろん、中・高、大学生になっても、頻繁に手紙を書いていた。親友と、恋愛相談に混じって「死刑制度」をどう思うか、長文メールで1カ月ほどやり取りしたのは社会人になってからだ。その親友とは学生時代にも毎日のように、大量の文章を交わしていた。私も彼女も、大学を小論文で受験していたということも理由の一つかもしれない。

 その彼女とのメールのやり取りと、今、私がやっていることは大きくは変わらないのではないかと思う。読む相手に「何が伝えられるか」「何を心に残せるか」を大切にしたい。だから「私が何者か」は実はどうでも良い。

 作家の桐野夏生さんの『バラカ』という作品は、原発事故が描かれている。これが2011年に書かれたことに驚き、フィクションの力に圧倒された。『バラカ』の世界観も恐ろしいが、本を閉じると、その余韻で現実もまた恐ろしいと身体に沁み渡る。

 その桐野さんはかつて「想像力によって現実を凌駕しなくてはならないと思っていたが、原発事故で打ちのめされた」と話していた。しかし、打ちのめされた直後になぜ『バラカ』が作品として誕生したのかについて、「自分自身の混乱を描きたかった」「渦中の人間の感情にこそ真実がある」と語っていた。

 一方、ジャーナリズムの世界では、原発事故を扱う場合、冷静さや科学的「正しさ」を問われがちだ。いわば、桐野さんが語った「感情」の反対側。現時点における「科学」が「正解」とされ、それが報道される。そこでは、研究の進捗によって正解が変化するという科学の重要な特性は無視されやすい。また、「科学」が政治的に利用され、被害が矮小化されていることを暴き、権力を監視する真っ当な報道が、一部の「学者」に叩かれたりもする。

 そして、市井の人々の間では「煽るな」「冷静になれ」と抑制的な言葉が飛び交う。大惨事でもなお「わきまえられる」人たちが登場する。何か影響があるとしても、あなたやあなたの子どもがその影響に当たる確率はせいぜいこのくらいだから、黙っていなさい、と「わきまえさせる」人も登場する。それらは、戦時中の愛国精神やコロナ禍の自粛警察の類に見える。国の見解を支持する科学者の発言が「正解」とされ、反論すれば「勉強が足りない」とSNSで袋叩きにあう。原発事故後に目にした光景は、10年経っても続いている。とても「科学」万能主義的で権威主義的だ。

 私は、原発事故の被害を受けた「人の言葉」を伝えたいと思い続けて書いているが、その言葉はいうまでもなく感情の発露だ。「渦中の人間の感情にこそ真実がある」と話す桐野さんの言葉に深く共感する。その時に抱えていた怒り、悲しみ、苦悩は揺るがない一人ひとりの真実だし、記録されるべきだ。

 『孤塁』でも、双葉消防本部の消防士の壮絶な活動を正確に記録することに努めながらも、大切にしたかったのは彼らの「感情」だった。原発に最も近い公設消防が、事故を起こした東京電力にいかに命を脅かされ、被ばくさせられ、蔑ろにされたか、という事実も当然、記録されるべきものだが、彼ら自身が「逃げたかった」「怖かった」「死にたくなかった」と思っていたことも、重要な真実だ。だからこそ、寝食もままならない過酷な活動をした消防士66人全員に「事故後、はじめて温かくて美味しいと思えた食べ物はなんでしたか」と聞いた。そのいくつかの答えを実際に『孤塁』に描いたが、その「美味しい」という感情は、読み手と消防士をつなぐものだと考えていたからだった。

男も女も「強いられた」

 この『孤塁』を連載中に、宇都宮大学の清水奈名子さんが「男性も『強くあれ』というのを強いられたんですね」と、コメントをくださった。また、茨城大学の原口弥生さんが、『ルポ 母子避難』で描かれたような母親が避難先で家事・育児を一人で背負うこととなり、ジェンダー役割の固定化を深めると話をしていたことも、清水さんの一言で思い出した。

 大災害や戦争などのカタストロフでは、女性や子ども、高齢者や障がい者、外国人など社会的に弱い立場に立たされている人々は真っ先に切り捨てられ、逆に「強くあれ」と鼓舞されて男性は命を脅かされる現場に立たされる。そして権力者は生き延びて歴史を改ざんしていく。原発事故も同じ構造と言ってよい。『孤塁』には「特攻」や「転戦」など、戦争の言葉がいくつか登場する。そういった言葉は個人的には使用を躊躇(ためら)うが、経験した人の実感のこもった言葉として、そのまま使っている。

 「犬死」「捨て石」「特攻」と思いながら遺書を書いた消防士たちは、住民がいなくなった町で、次々に爆発する原発に「命を落とすかもしれない」と思いながら向かった。その極限状態の中、ある若い消防士は「上司の

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