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同質の心地よさ脱し多様性を 英字紙の視角から得た気づき

大門小百合 ジャーナリスト、元ジャパンタイムズ執行役員・編集局長

 私がジャパンタイムズに入社してすぐにデスクから言われたことは、「昨日、成田に降り立った外国人にもわかるような記事を書け」ということだった。私が所属していたのは大手新聞社ではなく、日本を拠点とする英語の新聞だ。英字新聞の読者は英語圏の人とは限らないため、読者は誰なのかということを、常に自問自答していた気がする。読者は、フランス人かもしれないし、アラブの国やマレーシアの人かもしれない。そして、日本での滞在期間も日本に対する知識もバラバラであるため、ニュースの背景も含めた丁寧な記事が求められていた。

 今回この原稿を通じ、そんな読者層の違いから見えてくるジャーナリズムの役割、そして、女性として、取材記者のみならず、報道部長や編集局長など新聞社の管理職も経験したことから見えてくることについても、あらためて考えてみたいと思う。

 入社して1年たらずで、私は国会に送られ政治担当の記者になった。当時はまだ20代前半。国会に何人もの記者を派遣し、記者クラブに陣取る他社の記者の中で(少なくとも当時の私にはそう思えた)、緊張しながらも大物政治家に挨拶をすると、「君のところは雑誌か?」「いえ、英字新聞です」「なんだ、読者に有権者いないじゃないか」と、軽くあしらわれることがしばしばだった。また、女性記者どころか、女性議員もほとんどいなかったためか、実はトイレにも苦労した。というのは、国会の中央には大きなトイレがあったのだが、それは男性用トイレのみ。女性用は、衆議院と参議院の端に小さなトイレがあるだけで、取材中、何度、国会の端から端まで往復しただろうか。トイレに行っている間に大事な会議が終わってしまい、国会の中をダッシュして、政治家を追いかけたこともよくあった。

 2017年に日本でも公開されたNASAの宇宙開発に貢献した黒人の女性たちを描いた「ドリーム」(原題:Hidden Figures)という映画があったが、そこに登場する黒人の女性たちは、自分の職場とは違う遠く離れた建物にある黒人用トイレを使わねばならず、苦労したことが描かれていた。その映画を見た時、思わず、国会での自分の経験と重ね合わせてしまったのである。

 そんなマイノリティー的立場を、社会人になって間もない頃に経験したおかげで、その後、見聞きする女性記者の苦労についても共感できることが多かった。のちに管理職として子育て中の女性記者と一緒に働く上でもとても役に立ったと思う。

 ジャパンタイムズの記事は、翻訳ではなく、記者が最初から英語で書く。その過程で日本特有の言葉の意味をとらえ、わかりやすい英語にすることも心掛けなければならない。先輩記者からは、詳細や背景をふまえた上で、そのニュースにどういう意味があるのかを必ず書けと言われた。そうしないと、外国人の読者にとっては、ちんぷんかんぷんだからだ。

 新人記者として印象深かった取材は、1992年、日本が初めて自衛隊を海外に派遣する「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律案」(PKO法案)をめぐる国会の紛糾、そして翌年に起こった、55年の結党以来初めてとなる自民党の下野という大きな出来事だ。PKO法案をめぐっては、社会党中心の野党が牛歩戦術などを議場で繰り広げ、反対を表明。徹夜国会はほぼ1週間に及んだ。

国連平和維持活動(PKO)協力法案をめぐり、社会、共産両党などが牛歩戦術を展開=1992年6月12日


 牛歩など、日本特有の投票を引き延ばす議会戦術は、単にox walkなどと直訳して書くだけでは、読者には意味不明だ。牛歩が、ゆっくりと投票箱まで足踏みをしているように何時間もかけて歩いていく戦術で、投票を遅らせるとともに法案への強い抗議の意味を持つなど、記事は長くなってしまうが、説明を入れるようにしていた。

 栄養ドリンクを飲み、長時間本会議場から出られないため、大人用おむつをして徹夜国会に臨んだ社会党の議員たちにはとても驚かされたが、日本人がなぜ、自衛隊を海外に送ることに慎重になるのかということは、戦前の歴史から説明しなければ海外の人には伝わらないと強く感じた。憲法9条をめぐる議論を報道するため、集会やデモなどにも出かけていった。

 ちなみにAPやロイターなどの海外通信社は、自衛隊をJapanese militaryと訳すことが多かったが、軍隊というのにはニュアンスが違う。Self-Defense Forcesと訳すと、外国人の編集者が、武器を持って国を守るのだからmilitaryではないかと言って書き直そうとする。そこで、軍隊は憲法では認められていないし、戦場には行けないから軍隊とは書けないと反論するといったように、よく社内で議論を繰り広げたのを覚えている。今考えると、そうやって一つ一つの原稿の文言に対し、外国人の編集者と議論をしたおかげで、私は日本にいながら、「外国人から見て、日本で起こる数々のことはどのように見えるのか?」という視点を知らず知らずのうちに持つことができたように思う。また、取材する時には、「これは世の中にとってどういう意味があるのか」と、考える姿勢も身についた。

命懸けの記者との交流

 その後、政治、経済と様々な担当を経験して数年たった頃、私に転機が訪れた。ハーバード大学のジャーナリストのためのフェローシップであるニーマンフェローに合格したのだ。このプログラムに参加したおかげで、私は英文記事の本場アメリカでジャーナリズムを研究するだけでなく、世界から来た自分と同じような記者たちとともに1年間学び、かけがえのない仲間になるという貴重な機会を得た。

 このプログラムには毎週「サウンディング」といって、ニーマンフェローが、自分の今までやってきた仕事について、発表するセッションがある。全員記者だが、働いてきた国も媒体も違い、彼らの話を聞きながら、ジャーナリストの仕事について考えさせられた。

 コロンビアで、マフィアの動きやドラッグの取引で儲ける政治家などのことを書き続け、政府からも反体制派からも狙われて、亡命のような形でニーマンフェローに参加したイグナチオや、ナイジェリアの独裁政権下で命を狙われながら、印刷場所を転々と移動しながら雑誌を発行し続けたサンディなど、日本では会うことのない、命を懸けて仕事をしてきた記者たちに会うことができた。また、中国の放送記者は、政治についてのドキュメンタリーを作ることが許されず、環境問題などに特化しながらも社会の問題点を報道してきた。制約のある環境の中で、いかにしてジャーナリストとして継続して報道し続けられるか頑張ってきた仲間たちだ。

 今でも忘れられないのはソマリアの難民キャンプや、コソボ戦争を取材してきたフランス在住のアメリカ人カメラマン、ピーターの言葉だ。

 「僕らには人の命を助ける力があるわけでもなんでもない。それでも働くのは、自分たちが写真に撮ったもの、書いたことがらを本当に気にかけているからだ」と彼は言って

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