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失敗し続ける記者クラブ改革

時空を超えてその理由を検証する

森暢平 成城大学文芸学部教授

 ちょうど100年前(1921〈大正10〉年)の業界誌『新聞及新聞記者』(10月号)に、「最近、各官庁や会社などにある記者倶楽部の弊害を認めて、社内の有力者間に廃止論が起こっている」とする記述がある。その後、東京大手紙の編集幹部会「廿一日会」は、記者倶楽部改革を目指した。『時事新報』の大西理平支配人は「各社の記者が、官公署、政党、会議所等、各種の団体から一定の玄関ダネを得るために多人数、群をなして貴重の時間を費すが如き、人物経済上から非常な損失である」と批判した(『新聞及新聞記者』1925〈大正14〉年4月15日号)。「玄関ダネ」とは、役所の発表情報など玄関先で簡単に取れる情報のことである。記者クラブ(記者倶楽部)は当時から問題であった。

 ジャーナリストの青木理は本誌(昨年9月号)に、「検察人事問題でメディアの歪み露呈 記者クラブ依存やめ権力追及型報道を」という論考を発表している。「玄関ダネ」をやめようとの主張は、1世紀前とほぼ変わらない。ジャーナリストたるものは、記者クラブなる安易に情報が入手できる場所を飛び出して足で情報を稼ぎ、主な情報源(ニュース・ソース)である権力を批判すべきだと強調する議論は、反論の余地がない。しかし、問題は明治時代に始まる記者クラブがなぜ現在まで存在し、おそらく今後も存在し続けるかである。結論を先に言えば、記者と情報源の間には、洋の東西、時代の変化に左右されない、普遍的な関係があるためである。本稿は、記者クラブ問題を、時代と国境を越えて検討することで、これからのこの国のジャーナリズムが、この問題にどのように向き合うべきなのかを考えていきたい。

癒着とラポール形成の間

会見で記者との質疑応答に臨む菅義偉首相。批判の多い官邸会見の主催は内閣記者会(首相官邸記者クラブ)=2020年12月4日、首相官邸

 記者の仕事は、取材することで、ニュースとなるべき情報を入手し、記事を書くことにある。では、ニュースをいち早く察知するには、どうすればよいか。事件事故なら警察・消防、行政的な政策であれば中央官庁・都道府県庁・市町村役場に網を張ることが効率的であろう。

 記者クラブは、明治時代中期に誕生した。記者たちが団結して、取材の自由を確保・拡大する目的があったのは間違いない。1890(明治23)年、帝国議会が開会すると、記者のための傍聴券が20枚しか用意されなかった。議会担当記者たちは、交渉のため「共同記者倶楽部」(のちの「同盟記者倶楽部」)を組織する。

 ところで、当時の政治家たちは、集会および政社法の適用を避けるため、政治団体に「〇〇党」ではなく、「〇〇倶楽部」と名づけた。記者倶楽部もこれに倣い、緩やかな結びつきであることを含意するために、「倶楽部」と名づけられた。記者クラブの「クラブ」とは、「二院クラブ」「新自由クラブ」と同様、もともとは政界用語である。

 北村肇は、記者クラブについて、権力監視のウォッチドッグ機能のため、「省庁の内部に打ち込んだ楔」であり、役所内部の「目の上のこぶ」だと主張した(『腐敗したメディア』)。記者クラブ批判に対する反論は、こうしたジャーナリズムの論理が前面に出る。

 こうした主張に根拠がないわけではない。しかしながら、これはジャーナリスト側から見た綺麗事、ある種の建て前だ。そもそも、その成立直後から、記者クラブは、情報源(政治家・官僚)にとって、情報を操作するために都合がよいシステムであった。そうした実態は、すでに明治期から批判されている。当時のオピニオン誌『新公論』(1911〈明治44〉年4月号)は次のように記者倶楽部を批判した。

 その省に隷属せる記者団に対し、一斉に同じ種を供給す。抜け駆けの功名はまったく不可能になれるなり。(略)〔その省の記者〕倶楽部に名前を載せ、紋日物日〔特別な日の意〕に顔出しさえしておれば、馬鹿でも阿呆でも白痴(ママ)でも、腕利機敏な記者と同じ種を取り得るなり。

 記者は取材する際、情報源と接触する。社会科学の観察・実験でさえ、被調査者、被験者との意識・無意識レベルの相互作用が結果に予期せぬ影響を及ぼしてしまう。社会科学の方法より、制約が少ない取材という営為では、記者と情報源の間で、さらに強い相互作用が起きる。記者は常にニュース素材を必要としており、メディアを使って影響を及ぼしたいと考える情報源との間に、互恵的関係が生じる。

 また、ある情報源を取材するとき、信頼関係を保った方が、当然ながら情報を引き出しやすい。社会学は、インタビューやフィールドワークなどの社会調査を行う際、ラポール(信頼)形成の重要性を説く。記者が、情報源と個人的な関係を築くのは、ラポール醸成のためである。いっぽう、社会調査には「オーバー・ラポール」という問題が付きまとう。被調査者と過度に親密になることで、調査対象に近づきすぎて、適度な距離からの観察ができなくなる問題である。日本の記者が情報源に接近しようとすれば、飲みに行ったり、麻雀をしたり、ゴルフをしたりする。米国の記者なら、情報源をホームパーティーに呼んだり、呼ばれたりというのは日常であろう。ラポール形成とオーバー・ラポールは、教科書的な解決法がない取材のジレンマである。

 記者クラブは、記者と情報源との間で、ラポールが形成される場だ。記者たちによる、情報源とのラポール醸成は通常、推奨される。しかし、ラポールが行きすぎて問題化すると、一転して批判の対象となる。ラポール形成か、あるいは、癒着か。線引きは常に曖昧である。西山事件(1972年)や、検事長賭け麻雀事件(2020年)など、よほどの問題が起きない限り、記者のこのジレンマは、秘匿される。

競争抑制と監視

 記者クラブには、同業他社との競争抑制と監視という隠された機能もある。言論弾圧事件で有名な横浜事件(1944〈昭和19〉年)で検挙された酒井寅吉という『東京朝日新聞』の記者がいた。彼は33(昭和8)年に入社し、長野支局に赴任する。初任給が70円と他社よりも高給だったことを踏まえ、彼はつぎのように書く(『ジャーナリスト―新聞に生きる人びと』)。

 同業の若い記者と毎晩飲み歩くことになった。ところが彼らの中には月給15円などというのがザラであって、勘定はほとんど私が払うことになった。すると自然な感情として、私が親分となって、飲ましてもらっている彼らは私への義理だてに、仕事の方でも助けてくれた。中には自社へ書く特種を先に私に呉れたりした。

 取材の現場では、同業他社との協力関係が重要となる。あの家の男性はよく話してくれるとか、家宅捜索は何時になりそうだとか……。本来はライバルである同業他社が貴重な情報源となる。

 情報交換が重要なのは、記者が、情報という特殊な対象を扱う点に求められ

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