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特ダネの記憶 ロッキード事件・コーチャン単独会見

工夫と粘りで築いた信頼関係  「8日間・60時間」インタビュー

村上吉男 朝日新聞元アメリカ総局長

 「ちょっと待って、ムラカミさん。あなたはいつから、あんなセネター(米上院議員)になったんですか?」

 彼が突然、強い調子で反発した。私が、日本の政治家だけでなく、「アジアの他の国々の政治家にも多額の金が流れたんでしょうね」と、聞くともなく、つぶやいた時だった。

 1976年8月14日。真夏の米ロサンゼルス郊外のビバリーヒルズのホテル。その一室で、ロッキード事件に関して、長時間の独占会見がついに始まろうとしていた。ロッキード社前副会長(当時)で、日本への大型旅客機売り込みの最高責任者だったアーチボルド・カール・コーチャン氏と私。2人とも背広姿だった。握手をかわし、丸いテーブルに向かい合って着席した初日のことだった。

 その6カ月前の同年2月6日。真冬のワシントンの米議会上院のダークセン議員会館。その4階4221号ホールで午前10時、上院多国籍企業小委員会(フランク・チャーチ委員長=民主党)の公聴会が始まった。場内は航空事業関係者はもとより、関連企業・組織の関係者、関係各国の大使館員、そしてものすごい数の報道陣で埋め尽くされていた。

 開始と同時に、ロッキード社が世界各国で自社の旅客機を売り込むために支払った巨額の資金についてチャーチ委員長が次々と問い詰める。対するコーチャン氏は、ロッキード社が支払った金額も、相手先も、会計事務所を通じて連邦機関に詳細に報告済みであるとして、ロッキード社は違法なことは一切行っていないと主張した。立場は厳しく対立し、論争となったが、冷静に進行していた。

 そこへ遅刻して駆けつけた副委員長格のチャールズ・パーシー上院議員(共和党)が質問を始めた。同議員は、前日に非公開で行われた〝秘密聴聞会〟での打ち合わせを無視して、コーチャン氏に対して「金を渡すように言ったのは、日本の誰だったのか」「政治家ではないのか、誰だ」などと、繰り返しただした。

 米議会では、公聴会がうまく進められるように、前もって予行演習、すなわち非公開の〝秘密聴聞会〟が行われることが多い。コーチャン公聴会でも前日に予行演習が行われ、「明日の公聴会では、日本側の名前はここで合意された3者以外は明らかにしなくてよい」として、次のような合意ができていたという。すなわち、日本におけるロッキード社の正式な代理人である児玉誉士夫氏、全日空への最終売り込みに大きな影響を及ぼしたとされる国際興業社主の小佐野賢治氏、そして日本でのロッキード社の旅客機売り込みを請け負った商社「丸紅」。この3者のほかは、個人名などを出さないことが前日の予行演習であらかじめコーチャン氏と小委員会の間で合意されていたのだった。

 にもかかわらず、パーシー上院議員は個人名の追及をやめなかった。コーチャン氏としては、丸紅の「大久保利春専務には、何から何までお世話になってきた。彼の名前だけは、自分の口からは言いたくなかった」「公聴会の席から逃げ出したい思いだった」と振り返る。しかし、宣誓をした上での証言だったため、いつまでも質問を無視することはできず、彼の名前を明かさざるを得なかったことは「断腸の思いだった」という。

 この体験があったからだろう、コーチャン氏は私の顔を見て言った。「今日の会見は、日本でのロッキード旅客機売り込みに限定すること」が条件。「アジアの他の国々は含まれません」、そして「あのセネターのような合意違反はしないでほしい」と。あらかじめ、釘を刺しておきたかったのだ。

ワシントン舞台に夜討ち・朝駆け

 公聴会でのコーチャン証言のあと、ワシントンはすさまじい国際取材合戦の舞台となった。

 ロッキードの旅客機の売り込みで、巨額の金を受け取った者がいる、誰なのか、何人なのか。大物に違いない彼らの名前を突き止めることが、最大かつ、唯一の取材目標となっていった。欧州のオランダ、西ドイツ(当時)、イタリア、英国、そして中近東のトルコ、サウジアラビア。アジアでは、日本だけが大型旅客機20機以上の購入計画があるとして注目されたが、ほかにも、インド、シンガポール、インドネシア、韓国など多くの国々が対象とされた。これら諸国の報道陣は、ロッキード社に焦点を当てた上院の多国籍企業小委はもとより、銀行・住宅・都市問題委員会(プロクシマイヤー委員長=民主党)、そして米連邦政府の証券取引委員会(SEC)、国務省、ペンタゴン(国防総省)、司法省、財務省、国際貿易委員会(ITC)など、あらゆる関連機関に押しかけ、ロッキード関係の情報や資料を探り出すため全力を結集する事態となった。

 当時、ワシントンの外国報道陣の中で最大の三十数人を擁した日本の特派員団は急激に増強された。各社のニューヨーク支局員が総出でワシントンの応援に駆けつけ、東京からは政治部、社会部、経済部などの記者が専門分野での取材強化のために次々と派遣された。映像グループや雑誌社まで加えた日本の一大報道陣には、ワシントンの連邦政府職員らもびっくり仰天だった。市民たちはもっと驚いた。日本の記者たちが、郊外の住宅地にまで押しかけ、議会スタッフや政府職員らの自宅に、日本の「夜討ち、朝駆け」を敢行したからだ。早朝の出勤前、夜間の帰宅後に政府職員らの自宅付近をうろついたり、車で待機したりする日本人記者の姿が目立ち始めたのだ。

 日本の報道陣のすさまじさについては、二十数回の訪日歴を誇るコーチャン氏も熟知していた。後日、単独会見でこの話が出た時、コーチャン氏が実感を込めて口にした。「いやぁ、日本の新聞記者や放送記者のすごいのなんのって、(米上院の公聴会でコーチャン氏を追及した)フランク・チャーチ(当時、米上院議員)どころの怖さじゃないね。君たちは一体、いつ寝てるんだい」と。

 とはいえ、アメリカでの「夜討ち、朝駆け」はうまくいかなかったようだ。押しかけられた職員や家人が「怪しげな東洋人」が入れ代わり立ち代わり付近を徘徊し、呼び鈴を押したりしていると、911番(日本の110番)通報した。すぐさまパトカーが来て、調べられ、2度目には逮捕すると告げられたケースもあったようだ。電話攻勢に転じると、今度は米職員らの自宅の電話番号が次々と別の番号に替えられてしまった。

 そこで、私は手紙戦術を

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