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父の抑留体験、漫画で描く

「戦争の生傷」次世代に残す

おざわゆき 漫画家

 今年もまた8月23日がやってくる。毎年8月23日、私は千鳥ケ淵へ向かう。

 九段下駅を降りて、暑い日差しを避けるように千鳥ケ淵の脇道を進むと「戦没者墓苑」の文字が見えてくる。奥には広場があり、突き当たりには墓碑がある。いつもは都会の喧騒から離れセミの声だけが響くひっそりとした広場。しかしこの日だけはちがう。

 入り口には受付の机が置かれ、署名をしたのち、軒下にズラリと並べられた椅子に座る。すでにたくさんの老若男女が集まっている。久しぶり、と歓談している人たちもいれば、じっと開始を待っている人もいる。カメラをセットするメディア関係者らしき人たち、国会議員と思わしき人たち。黒い服の人が多い。私も受付でもらったプリントに目を落とす。「異国の丘」の歌詞カードが目に入った。故郷から遠く離れた異国の、耐え難いような一日の終わりに、ほんの少しの希望にすがるような歌。きっと今日もこの歌を聞くのだ。京都・舞鶴の「異国の丘」の歌碑の横で、父の写真を撮ったことをチラリと思い出した。

 毎年8月23日には全国から傷をかかえた人々がこの場所に集まる。抑留という傷をかかえた元抑留者や遺族、関係者らだ。「シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い」。8月23日、それは終戦直後にスターリンの指令でシベリア抑留が始まった日。つまり日本人捕虜が50万人も労働力として拉致され、シベリアに送られた日だ。

 そしてそのうちの一人が実父だ。父は19歳で極寒の地に送られた。そしてその64年後、私は父のシベリア抑留体験を漫画作品として描いたのだ。

想像つかぬ極寒の「生活」

京都・舞鶴にある「異国の丘」の歌碑(筆者撮影)

 初めて「シベリア抑留」という言葉を知ったのは、私が高校生の頃、父親からだった。当時学校から「家族の戦争体験を聞いて、レポートにして提出」するという課題が出された。私の親世代は戦争を経験している人が多かった。子供の頃に空襲にあったとか、疎開をしたという世代だ。

 うちの父親はどうやら兵隊に行っていたらしい、というのは家族の会話で知っていた。それも捕虜になっていたらしい。父は同級生の親世代よりも少しだけ年嵩で、親が兵隊に行っているなんて他の同級生にはいない。それなら父親の証言を聞いてレポートにした方が目立つにちがいない。そんな軽い気持ちだった。私の友人も共同名義でやりたいと言うので、たしか3人の連名で提出したのだ。

 実際に証言を聞くのは私だった。その時は深く考えずに「課題でお父さんの戦争体験聞きたいんだけどい~い?」と普通に尋ねた。父は快諾してくれた、と思う。その辺りは詳細に思い出せないのだ。父がどんな思いで「いいよ」って言ってくれたのか、どんな顔していたのか、今思うとすごく大事な瞬間だったというのに。

 父の話を実際に聞いたのはどれくらいの時間だったのか、私にはとても不思議な時間だったと思う。違和感というか、何か別の世界の話を聞いているようだった。家族の話じゃないみたいな気分だった。

 当時の私の捕虜のイメージは、南方の島で白旗を振っている日本兵、だった。しかし父の口から出たのは「聞いたことの無い外国生活をしている青年の話」だった。改めて「生活」と言うと、まさしくその通りで、「兵役」でも「旅行」でも無い、海外で労働させられている人の生活の話だ。食べるものはわずかな黒パンにスープ、仕事も炭鉱での採掘や伐採や草刈りで、住んでいる所も日本と全然違う外国風の建物だ。父から聞き取りをしながら簡単な絵も描いてレポートの挿絵にしたけれど、収容所の絵も服装も、何か空想上の絵みたいに感じた。

 生活ってどういうこと? なぜ捕虜なのに、そんなに長く外国で働いて、しかも最後の方では賃金までもらっていたの? この話の中で、とりわけ印象的だったのは労働環境だ。すごく寒い。マイナス30度だと。聞いていても全く想像がつかない。

 「マイナス40度なら仕事を休めるけど、30度なら外に出されるんだよ」

 え? 40度? そもそもマイナス30~40度って人間が生きていられるの? 冷凍庫の温度じゃない? 凍傷になっちゃうよ。人間、昔の話は「盛って話す」ということはある。しかしその時の父の口調は最初から最後まで冷静で淡々としていた。私も何一つリアルさを実感しなかったけれど、きっと本当だったんだろうと思った。

 高校生の娘の素朴な疑問に、父は詳しく説明などしなかった。「言ってもわからない」と思っていたかもしれない。私もそれ以上詳しく聞かなかった。なにせ初めて聞くことばかりだったから、ちょっとポカンとしていたと思う。

 レポートは授業で評価されて、友人含め「優」をもらった(ちなみに友人は清書を請け負ってくれた)。何かすごいことを聞いてしまった、普通の人の経験していないようなことを。その思いだけは強烈に残った。

 学校から返されたレポートを、うちの母はしみじみと眺め「これ取っておかなきゃね~。お父さんの大事な記録だから」と言う(そして実際にその後何十年もきれいに保存してくれていたのだが)。母はその時忘れられないことをふたつ言った。

 「お父さんが抑留行ってたなんて全然知らなかったわ」

 なんと母は、夫がどこから帰還したのか聞かされていなかったのである。その時すでに結婚20年以上だった。「あんたの課題がなかったら聞けなかったねえ」。そうなのか、私は偉いことをしたのかな、でもどうして言わなかったんだろう。

 そしてもうひとつは「あんた、コレいつか漫画にしたら」。

 母の言葉は呪文のようにその後何十年と心の奥にあった。あんなに壮絶な史実なのに、シベリア抑留のことは教科書にも載っていないし、テレビドラマでもあんまり取り上げられていない。抑留という言葉も知らない人がいる。

 だったら娘の私が残すしか無い。私は漫画くらいしか表現方法を持っていなかった。だったら私が漫画でこれを描くんだ。いつか。

勇崎氏の絵に慟哭を聞く

 いつか……と思い続けて結局25年以上過ぎてしまった。私は上京して東京で暮らしていた。心に留めながら描けなかったのには理由がある。私はずっと漫画家志望で、個人で同人誌なども発行していたが、描いている内容は別の社会問題だったりファンタジーだったり、つまり他に興味のあるジャンルがあったのだ。あと、単純に戦争関連の知識が薄かった。この時代を描くには相当勉強してちゃんと描かねばと思っていたのだ。そして証言を取れる相手は身内だから、いつでも聞ける気がしていた。いろいろ理由をつけて先送りにしていたのだ。

 その頃の私といえば、随分とくすぶっていた。小さい頃から漫画家になりたくてなりたくて、いろいろ描いてはきたけれど売れず、同人誌を好んで読んでくれる人はいたけれど、活動として表で評価されることは無かった。40歳を超えて、さすがに夢を見続けるにはもう限界がある。そう感じていた。

 そんなある日、新聞で九段社会教育会館で開かれる勇崎作衛さんのシベリア抑留を描いた展示の記事を見かけた。割と近い場所だったこともあって勉強のひとつみたいな気持ちで見に行った。

 小さな展示会場なのにたくさんの人がいた。会場の中には大きなキャンバスが所せましと展示してある。同じだ。どこまで見ても同じ風景が描かれた絵が続く。暗い林と雪や茶色い地面、そしてそこで黙々と労働をする真っ黒な人々。しかし見続けているうちに私は

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