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特ダネの記憶 NHKスペシャル㊦「全貌 二・二六事件」

海軍、事件7日前に詳細把握 最高機密文書から歴史の闇に迫る

吉田好克 NHK福岡拠点放送局放送部副部長

 「特ダネの記憶」というタイトルで執筆するのは非常に心苦しいが、この取材で抱いたのは特ダネを取ったという感覚とは少し違う。「こんなことがあるのか」と気恥ずかしくなるほど素直に驚いたというのが、二・二六事件に関する今回の資料と対面した時の正直な感想だ。

 2019年8月に放送したNHKスペシャル『全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~』(以下「全貌二・二六」)の取材は、その10年前の2009年8月に放送されたNHKスペシャル『日本海軍400時間の証言』(以下「海軍400時間」)から始まった。

 「海軍400時間」の取材班には途中から加わったのだが、そのころは防衛庁(当時)の担当を経て社会部の遊軍記者として安全保障全般を取材していた時期で、ちょうど歴史を知らなければ、という思いに駆られていた。というのも、当時は自衛隊の「実任務」が急激に増加する一方で、重大な事故や不祥事が相次いでいたからだ。

2019年8月に放送した『全貌 二・二六事件』。機密文書の分析に時間がかかり、資料入手から10年の歳月を要した

相次ぐ自衛隊不祥事、「歴史」に関心

 自衛隊の任務は2001年9月11日、アメリカで起きた同時多発テロをきっかけに大きく変わる。翌月にはテロ対策特別措置法が成立。自衛隊の活動範囲の制限が事実上なくなり、「不朽の自由作戦」「対テロ戦」としてアフガニスタンで軍事作戦を展開するアメリカ軍の艦艇に対して、インド洋で燃料を補給する任務を海上自衛隊が実施した。日本は憲法9条で国際紛争を解決する手段としての「武力の行使」が禁止されている。このため海上自衛隊の艦艇は、戦闘行為とは一線を画し、後方支援の活動を行うとされた。自衛隊から燃料の補給を受けたアメリカ軍の艦艇は戦闘行為を行うことから、「武力行使の一体化」ではないかという議論もなされたが、同時テロ後の切迫した状況の中でアメリカから求められた「ショー・ザ・フラッグ」に日本は応えることになった。

 さらに2年後の2003年にはイラク戦争が勃発。大量破壊兵器を開発・保有しているとして、アメリカ軍やイギリス軍が「イラクの自由作戦」として攻撃を開始した。戦闘行為の終結を受けて、自衛隊が現地の「人道復興支援」を目的に派遣されたが、イラクでは急速に治安が悪化。イラク南部のサマーワに派遣された陸上自衛隊の部隊は、迫撃砲の攻撃などを受けながら緊迫の任務を強いられる。隊員の「殉職」が現実になるのではないか、逆に正当防衛などの理由で隊員が武器で相手を殺傷するのではないか。当時の緊張と、もし現実となった時のその後の影響を考えた時の重い気持ちは今もって忘れることができない。アメリカ側が求めた「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」に応じる形で自衛隊はまたさらに踏み込んだ実任務を行うこととなった。

 これらの任務は同盟国・アメリカの動向が少なからず背景にあるが、さらにこれとは別に日本を取り巻く安全保障環境の変化が自衛隊の任務増加に大きく影響し始める。特にこの時、目立ち始めたのが北朝鮮の弾道ミサイル発射への対応だ。1993年と98年に1発ずつ発射されたあとは表だった動きは見られなかったが、2006年7月に「スカッド」「ノドン」「テポドン2」という複数種類の弾道ミサイルが1日だけで計7発も発射。これはその後の相次ぐ発射の予兆となるのだが、このころを境に自衛隊は日本周辺での警戒監視の任務を、さらに一段高いレベルで続けることが求められるようになったのだ。

 一方、実任務が拡大したこの時期に相次いで起きたのが、防衛省・自衛隊内部でも「考えられない」と衝撃が走るほどの重大な事故や不祥事だった。

 2007年12月には、海上自衛隊横須賀基地に停泊中だった護衛艦「しらね」で火災が発生。「戦闘指揮所(CIC)」というレーダーやソナー、通信などあらゆる情報が集約され、武器使用など戦闘の指揮を行うまさに「心臓部」と言える区画が全焼した。「しらね」は第1護衛隊群の「旗艦」で、海上自衛隊を代表する艦艇と言える存在だった。その心臓部を全損する火災は常識では考えられず、物理的にも精神的にも多大なダメージを及ぼした。

 その衝撃が覚めやらぬ2カ月後の2008年2月には、千葉県沖で当時最新鋭のイージス艦「あたご」と漁船が衝突。漁船に乗っていた親子2人が死亡するという痛ましい事故が起きた。海上自衛隊は1988年に神奈川県の横須賀沖で潜水艦「なだしお」と遊漁船「第一富士丸」が衝突し、遊漁船の30人が死亡する甚大な事故を経験している。国民を守る自衛隊が民間人を巻き込む事故を起こすなどということは、言うまでもなく決してあってはならない。それは当の自衛隊自身が何よりも強く認識している。この事故では海難審判と刑事裁判の判断が分かれたが、事故が起こる数年前に聞いたある護衛艦の艦長の言葉を思い出した。「仮に相手の船に過失があったケースだとしても衝突は防ぐ。それが我々の目指す〝精強〟という意味です」。そう淡々と語っていた。イージス艦の衝突事故は、東京・市谷の防衛省内にある海上幕僚監部全体が一様に沈鬱な空気に包まれるほどの重大な衝撃を及ぼした。

 このほかにも2006年1月にメーカーの談合に関わったとして防衛施設庁(当時)の技術審議官らが逮捕されたのを始め、2007年11月には防衛商社が絡む贈収賄事件で防衛省事務方トップだった前事務次官が、翌月には海上自衛隊の幹部自衛官がイージス艦に関する防衛秘密を流出させたとして逮捕された。相次ぐ事故や不祥事に防衛省・自衛隊は揺れ続けた。

 この現実を前に、何か重要なことを見過ごしているのではないか。本質的な問題に気づかないまま自衛隊の変化がなし崩し的に進んでいるのではないか。そうした疑問が日に日に強まり、最新のニュースを追いかけるだけではだめだ、今の立ち位置を考えるために歴史をもっと深く知らなければならない、という動機に結びついていった。それが「全貌二・二六」にいたる一連の取材のスタートであった。

テープに残る「沈黙の提督」の思い

 そこでまず取りかかったのは自衛隊の草創期の取材だ。自衛隊は、旧日本軍が戦争への道を突き進んだという反省から、旧軍とは一線を画して、終戦から9年後の1954年に設立された。軍隊ではない自衛隊にどのような思いが託されていたのか、取材を進めていくと、ある日本海軍の元幹部にたどりつくことになった。

 終戦の年に大将に昇任したことから「最後の海軍大将」と呼ばれる井上成美だ。日独伊の三国同盟は戦争につながるとして米内光政、山本五十六とともに一貫して反対し、情勢を冷静に見極める理論的な判断をしたことで知られる。日本の敗戦や旧軍の実態について深い思いを抱いていたであろうが、戦後は横須賀の海に近い自宅でひっそりと暮らし、ほとんど人前に出なかったことから「沈黙の提督」とも言われている。井上は1975年に86歳で死去したが、将来の幹部自衛官を養成する防衛大学校の1期生に語った肉声がテープに残されていることが旧知の取材先からの情報でわかったのだ。防大1期生の一人が保管していたもので、取材の趣旨を説明すると快く応じてくれた。40年前に収録したというテープは見た目がやや古びていた。少し不安を感じながら再生してみると音声の状態は良好で、井上が約3時間にわたって将来の自衛隊を担う若者たちに優しく語りかける様子が録音されていた。

 その内容は、開戦への憤りや軍部が行った昭和天皇への虚偽の報告、特攻で部下の命が失われたことへの悔恨など多岐にわたっている。そして防大1期生へ、「自衛隊は

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