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刑事裁判と訴訟記録の公開 民主主義支えるため不可欠

福島至 龍谷大学名誉教授・研究フェロー、弁護士

1 狭められる裁判公開

 刑事裁判においては、2009年から裁判員裁判が実施されている。この制度は、「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」(裁判員法1条)とされて、導入された。その後、刑事司法に対する国民の理解や信頼が深まったかどうかはわからないが、遠い存在であった裁判所が、少しは市民に近寄ることが期待されている。

 しかし、これと逆行する流れがある。裁判の公開に様々な制約が課され、司法が遠く感じられるような事態である。被害者や関係者のプライバシー等保護を理由に、種々の措置がとられるようになった。たとえば、法廷における被害者の匿名化(刑事訴訟法290条の2)や証人尋問の際の遮蔽措置(同法157条の5)などである。実際に、「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件の法廷では、ほとんどの被害者が匿名化された。そればかりでなく、傍聴席の約3分の1が被害者遺族等の席として確保されたため、傍聴人は少数に限定された(注1)

「やまゆり園事件」の初の被告人質問を前に、傍聴券を求める人たちが列をつくった=2020年1月、横浜市
 裁判員制度の導入があったが、裁判の公開は徐々に狭められているのではないか。もしそうであるならば、裁判は再び市民から遠い存在になりかねない。そんな問題意識を持ちながら、考えることにしたい。以下では、刑事事件の訴訟記録の公開に焦点を絞って、裁判と市民との距離について考えてみよう。

 なお、民事裁判においても訴訟記録の公開が問題となる。ただ、私の専門は刑事裁判の分野であり、ここでは取り上げない。

2 記録公開、なぜ必要か

(1)裁判の公開

 憲法82条は、裁判の公開を定めている。また、憲法21条は知る権利を保障していると解されている。歴史的に裁判の公開が保障されてきたのは、密室裁判・秘密裁判の克服にあった。裁判過程に対し、市民の監視が必要であると考えられたからだ。裁判が公開され、市民の批判にさらされることによって、裁判の公正が担保される。

 かつて1950年代に、松川事件において作家をはじめ市民による裁判批判が行われた。その批判の力もあって、最終的に冤罪が回避できた。当時の最高裁長官は裁判批判を「雑音」と称して嫌ったが、この事実は裁判批判の意義を示す好例である。裁判の公開は、裁判の民主的統制を図るものであり、民主主義社会にとって不可欠な要素である。

 裁判の公開と聞いて容易に思い浮かぶのは、傍聴の自由だ。法廷は出入り自由で、席が空いている限り、誰でも裁判を傍聴することができる。しかし、裁判はもっぱら平日の日中に行われているため、仕事のある人たちが傍聴に行くことは難しい。アメリカ合衆国では裁判のテレビ中継が行われているが、日本ではそんなサービスはない。裁判は公開されているとはいえ、市民にとってなかなか法廷の模様はわからない。

 たとえ裁判の傍聴ができたとしても、法廷での審理の中身を理解するには壁がある。法廷で用いている言葉は、専門用語が多い。やり取りされる書類の中身は、ほとんど傍聴席からうかがい知ることはできない。それどころか、罰金刑などを科すことができる略式手続きは書面審理なので、そもそも傍聴すらできない。

 そうすると、民主社会において裁判の公開が担う役割は、傍聴の機会が確保されているだけでは不十分である。裁判の公開によって裁判の公正が担保されると前に述べたが、それらの事情を考えると絵空事になりかねない。

(2)訴訟記録の公開

 このように考えていくと、裁判の公正さを担保するためには、訴訟記録が公開されることも必要であることがわかる。ちょうど議会において審議の公開が行われるだけでなく、議事録の公開が必要であることと似ている。訴訟記録があれば、時間をかけて事後に審理過程を検証することもできる。だから学説上、裁判の公開の保障は、訴訟記録の公開も含むことになると考えるのが一般的となっている。もっとも、最高裁はかたくなで、訴訟記録の公開は憲法が要求するところではないとしている(注2)

 市民の訴訟記録の閲覧が憲法上の権利であるかどうかはともかく、法律のレベルではどうなっているか。まず、刑事訴訟法(以下、刑訴法)53条1項本文は「何人も、被告事件の終結後、訴訟記録を閲覧することができる」と定めている。誰もが自由に閲覧することができる原則(閲覧自由の原則)が、明確にされている。この規定は、現行の刑訴法が制定された1948年から存在する。当時アメリカ占領軍側から、確定後は誰でも訴訟記録が閲覧できるとする案が提示され、それに沿った規定となった。いまだ情報公開が意識されていない時代であったことから考えると、極めて画期的である。

 さらに、刑訴法53条の規定を受けて、刑事確定訴訟記録法(以下、記録法)が1988年に施行された。記録法4条1項本文は、「保管検察官は、請求があつたときは、保管記録(……)を閲覧させなければならない」と規定している。また、記録法8条は、保管検察官の閲覧に関する処分に対して、閲覧を請求した人が裁判所に不服申し立て(いわゆる準抗告)をすることができるとした。このことから、市民が刑事確定訴訟記録を閲覧する法律上の権利が、明確に認められたことになる。

(注1) 2020年1月7日日経新聞朝刊「法廷に問うもの相模原殺傷公判(下)」。
(注2) 1990年2月16日最高裁(三小)決定(判例時報1340号145頁)。

3 記録法の建前と現実

(1)立派な建前

 刑訴法53条や記録法4条の規定によれば、法の建前としては閲覧自由の原則が定められている。特に閲覧の理由を示すことなく、誰もが閲覧できる枠組みになっている。情報の公開が明確に定められている。そればかりではない。もし閲覧が許可されない場合には、準抗告をすることができる。刑訴法上、事件に直接関係のない一般人が準抗告できるのは、ほぼこの場合だけだと言ってよい。裁判傍聴については何の不服申し立てもできないことに比べると、その差が際立っている。刑訴法や記録法が定める閲覧自由の原則は、裁判の公開原則が所期する市民の裁判監視や批判を可能にする制度となっているように見える。

刑事確定訴訟記録法案が固まったことを伝える1987年2月23日の朝日新聞夕刊記事

(2)甘くない現実

 ところが、現実はそう甘くない。ある事件に関心を持った市民が、事件確定後に保管検察官に訴訟記録の閲覧を請求しても、そう簡単には認めてくれない。閲覧を請求するまでに、いろいろな難関がある。たとえば、閲覧請求のため検察庁に赴くと、受付では、「訴訟記録は第三者は閲覧できないことになっています」とか、「関係者以外の方は見られません」などと、けんもほろろの洗礼を受けるのである。これはある一つの検察庁だけの話ではない。同様の扱いを受けたとの報告が、各地の経験者から寄せられている。ちょうど生活保護の申請をさせないようにする一部自治体の対応に似ているので、「水際作戦」と称されている(注3)

 しかし、水際作戦は許されるものではない。法律が定めている閲覧自由の原則に明らかに反する態度である。刑事訴訟記録の閲覧は、行政機関である検察庁が提供する市民サービスの一つである。親切で丁寧な対応をとるべきであろう。

(3)広範な閲覧制限

 現実を前にすると、閲覧自由の原則は形骸化しているように思われる。その原因には、検察庁の体質もあるが、記録法の規定にもある。記録法4条1項は閲覧自由の原則を定めるが、同条2項は「次に掲げる場合には、保管記録(……)を閲覧させないものとする」として、例外を掲げている。掲げている閲覧制限事由は、1号から6号まで多岐にわたる。たとえば、「事件が終結した後三年を経過したとき」とか、「記録を閲覧させることが公の秩序又は善良の風俗を害することとなるおそれがあると認められるとき」、「記録を閲覧させることが関係人の名誉又は生活の平穏を著しく害することとなるおそれがあると認められるとき」などである。しかし、なぜ確定後3年経過したら一律に閲覧できなくなるのか、理由がわからない。また、それ以外の例外事由は抽象的な表現が多く、かなり広範に解釈することもできる。これらは、法律の原則と例外を逆転させる道を開いてしまうのである。

 もっとも、記録法4条2項但し書きによれば、閲覧制限事由に該当する場合であっても、「閲覧につき正当な理由があると認められる者」の閲覧請求は認められるとしている。ただ、これまでの裁判例では、ジャーナリストや市民は正当な理由がある者とは認められていない。結局、広範な制限が正当化されてしまう。

(注3) 清永聡「私はこうして記録を閲覧した」ほんとうの裁判公開プロジェクト『記者のための裁判記録閲覧ハンドブック』(公益財団法人新聞通信調査会、2020年)10頁。

4 保管するのは検察官

 問題はそれだけではない。刑事裁判の記録なのに、なぜ検察官が保管しているのか。裁判所の行った活動の記録が、刑事確定訴訟記録である。裁判所の公文書である。検察官は、刑事裁判の一方当事者に過ぎない。検察官が保管するのは、筋が通らない。

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