澤康臣(さわ・やすおみ) ジャーナリスト、専修大学文学部ジャーナリズム学科教授
共同通信記者として1990〜2020年、社会部、ニューヨーク支局、特別報道室などで取材。タックスヘイブンの秘密を明かした「パナマ文書」「外国籍の子ども1万人超の就学不明」「虐待増え子ども施設限界、ピーク時定員150%も」「戦後憲法裁判の記録、大半を裁判所が廃棄」を独自調査で報じた。2006〜07年、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所客員研究員。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
近代民主国家で密室裁判は許されない。だから日本国憲法82条が裁判の公開をうたい、裁判の公開は、当事者がそれを望むかどうかと関係なく貫かれる。ジャーナリズムはその趣旨を生かし、権力監視や社会問題検証に裁判の公開を活用し、各国の調査報道記者は裁判資料を公開公文書の一環として精査している。だが、日本ではこれが、特に刑事裁判を中心に、困難になってきている。
検察庁から日々、記者あて一斉メールが届く。「詐欺事件で起訴」「殺人事件で有罪判決」「人身売買組織を摘発」。メールには事件の概要、摘発の意義、検事正のコメントが書かれ、裁判所に提出した実際の起訴状がそのまま添付されている。
これは私が現地記者として経験したニューヨーク連邦地検の仕組みだ。米国の地元メディアは特別な情報源を持ち、特ダネになる特別な情報を入手するのだろう。だが起訴状をはじめ「表向き」の情報に関しては誰にでも公開される。ニューヨーク・タイムズだろうが、聞いたことがない日本の通信社だろうが、同じだ。裁判は公開であり、裁判記録は全て誰が見てもよいもの、誰でも見る権利があるものだからだ。つまり検察庁には、法廷に出した情報を市民に秘匿する権限はない。真正な起訴状をメールに添付するのも、その考えに沿う。日本では次席検事から起訴内容の「要旨」、それも大幅に匿名化され検証困難なものを渡されることさえも「恩恵」であり「立ち入った情報をもらえている」かのように感じさせられているのと、裁判の公開の概念が異なる。
裁判の公開は「裁判記録の公開」でもある。米連邦裁判所の記録データベース「PACER」は誰でも、日本からでも利用ができ、刑事民事問わず被告や原告の名前で事件を検索し、記録を原則として黒塗りなしでダウンロード可能だ。連邦とは別にある州ごとの裁判所でも裁判記録の公開は徹底される。ニューヨーク州では、2011年に国際通貨基金専務理事だったドミニク・ストロスカーンが性暴力の罪に問われた事件が注目を集め、公判前の手続き段階から検察官と弁護人の応酬が大きく報じられた。その際に活躍したのが州裁判所の公式ウェブサイトだ。報道からの問い合わせがよほど多かったのか「ストロスカーン事件コーナー」が設けられ、双方の書面が全てダウンロードできるようになっていた。フロリダ州では2016年、地元紙「フロリダ・タイムズユニオン」記者が薬物密売人の刑事裁判記録から逮捕報告書や捜査官の宣誓供述書を調べ、捜査当局が知られざる顔認証システムを使って容疑者を逮捕していた実態を暴いた。
こうした裁判記録の一部が新聞のウェブ版に掲載されることもある。読者はダウンロード可能だ。これもオープン情報だからだ。
容疑者の勾留も、米国では公開の法廷で決める。検察官はなぜ勾留が必要かを裁判官に公開の場で説明する。記者も市民も見ている。「これが『相場』だから」という内輪の理屈は通らず、その都度説明責任が問われる。容疑者の認否や主張も公開され、捜査当局が隠す恐れも、ゆがめて伝える恐れもない。この法廷のやりとりの記録もまた公開され、電子化済みの裁判所ならダウンロード可能だ。
米国の刑事司法には、数々の冤罪、選挙で選ばれる検事が犯罪への強硬姿勢をことさらに売りにする問題、人種や経済状態により公正な裁判が受けられない恐れなど批判は多い。だが、それらをオープンに検証するための制度もまた、整っていることになる。