駒村圭吾(こまむら・けいご) 慶應義塾大学法学部教授
1960年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒。法学博士。2005年から現職。慶應義塾高等学校長、慶應義塾常任理事等を歴任。専攻は憲法。ハーヴァード大学ライシャワー日本研究所憲法改正リサーチプロジェクト諮問委員。編著書に、『憲法訴訟の現代的転回』(日本評論社)、『テクストとしての判決』(有斐閣)、『「憲法改正」の比較政治学』(弘文堂)など。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
2001年に、『ジャーナリズムの法理―表現の自由の公共的使用』(嵯峨野書院)を出版した。これは、私がいわゆるポスドクの頃お世話になったのが慶應義塾大学新聞研究所(現メディア・コミュニケーション研究所)だったので、そこで考えたことをまとめたものである。それから10年後の2011年、「職業としてのジャーナリズム」(駒村圭吾・鈴木秀美編著『表現の自由Ⅱ―状況から』尚学社)を発表した。基本的に前作で展開した報道機関への提言を若干のアップデートをほどこして、ほぼそのまま再言したものであった。そして、2021年、本誌編集部から、報道の自由について前作を踏まえて何かを言ってほしいとの依頼を受けたのである。
くしくも、10年ごとに報道機関やジャーナリズムに対して意見を述べる機会を得てきたことになるが、20年も前の拙論に注目をしてくれた言論人が存在したことにまずは感謝と敬意を表したい。拙論の命脈が絶たれずにすんだからである。とは言え、拙論は好評を博したわけではさらさらなく、むしろかなり激烈な反発を受けた。2007年にさる学会で上述の著作の概要を述べたところ、「結局、新聞はエリートが作ればいいってことですか?」「あなたの見解だと、社論統一をする報道機関はジャーナリズムではないことになる。駒村説には反対です」と言われた。お二人とも当時も今も大活躍されている一線級の論者である。核心を突くご指摘をいただいたと今でも思っているが、私の行った問題提起あるいは危機感の表明、それ自体にも共有を拒否するという趣旨であったなら、とても残念である。
では、当時、私はどのような主張・提案を行ったのか。要約すれば以下のようになる。
①最高裁(博多駅テレビフィルム提出命令事件決定〈最大決昭44-11-26〉)は、「報道機関の報道」について、「民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである」と捉え、「奉仕者」としての報道像を打ち出している。かかる〝奉仕者モデル〟は他律的・受動的にすぎ、むしろ国政に直接的・主体的に関与する〝当事者モデル〟こそがメディアを救うと見る傾向がある。
②しかし、〝奉仕者モデル〟は、主体性なき橋渡し役に甘んじることをメディアに求めるものではない。むしろ逆である。そもそも、「国民の知る権利」への奉仕と一口に言っても、そこに言う「国民」も、国民の「知りたいこと」も自明ではなく、それはジャーナリズムの職能に照らして、不断の解釈によって究明されるべき事柄である。
③ジャーナリズムの使命の背後には、自己と世界を媒介するものを可能な限り排除して直接現実と向き合いたいと願う、世界了解に関するわれわれの根源的欲求がある(注1)。かかるわれわれの根源的欲求に応えるには、メディアがその語義にならい現実と国民をつなぐ「媒介」に徹し、その主体性を無化すべきだとの帰結がもたらされるわけではない。奉仕者の役割を引き受けるには、媒体に甘んじることなく、ジャーナリストの職能、――つまり、「批判精神・真実究明」「規範衝突・義務衝突の覚悟」「説明責任の公的遂行」「国民との情報確度の共有」等(注2)――を誠実に発揮し、表層的真相を疑い、世界を構成する事実を常に更新していかなければならない。それは、部数が多いとか放送周波数を利用できるとかの「媒体的な優位」がありさえすれば達成できるものではない。事案の深層を切り開き続け、権力者の重い口を開かせ、逮捕されても取材源は秘匿する、こういったしつこい作業は、到底市井の人々が日常的に実行できるものではない。「世界と個人を無媒介につなげるために両者を媒介する」という逆説の意味をよく理解した一群のプロフェッショナルたちが必要になる。
④報道メディアは、「媒体の優位性」ではなく、以上のような「職能の優位性」で勝負すべきである。インターネットの出現により前者の優位性を失いつつある今日ではなおさらであろう。
⑤報道機関に与えられるさまざまな特権は、上に見たようなジャーナリストの職能に秀でた者たちの集団、つまり「職能複合」としてのそれに与えられるべきだろう。社論の統一を通じて傾向団体化する報道機関は、むしろ「結社」に近い。特定の教説の下に結集した結社に特権を認める必要はない。
20年前に述べ、そして10年前にも繰り返した、以上の見解は十数年前にそうだったように反発や冷笑を受けるだろう。しかし、基本的には変更するつもりはない。それどころか、三たびここに強調しておく必要を感じる。
(注1)玉木明『言語としてのニュー・ジャーナリズム』(1992年、學藝書林)19、62頁。
(注2)これらの〝職能〟の詳細については、駒村圭吾「職業としてのジャーナリズム」駒村圭吾・鈴木秀美編著『表現の自由Ⅱ―状況から』(2011年、尚学社)474~494頁参照。加えて、駒村圭吾「新聞は生き残る必要があるのか」新聞研究第657号(2006年)、駒村圭吾「新聞の公共性とは何か」新聞研究第747号(2013年)も参照賜りたい。