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報道も取材も「自由」ではない “職能”を“職責”に高めてこそ

駒村圭吾 慶應義塾大学法学部教授

 2001年に、『ジャーナリズムの法理―表現の自由の公共的使用』(嵯峨野書院)を出版した。これは、私がいわゆるポスドクの頃お世話になったのが慶應義塾大学新聞研究所(現メディア・コミュニケーション研究所)だったので、そこで考えたことをまとめたものである。それから10年後の2011年、「職業としてのジャーナリズム」(駒村圭吾・鈴木秀美編著『表現の自由Ⅱ―状況から』尚学社)を発表した。基本的に前作で展開した報道機関への提言を若干のアップデートをほどこして、ほぼそのまま再言したものであった。そして、2021年、本誌編集部から、報道の自由について前作を踏まえて何かを言ってほしいとの依頼を受けたのである。

 くしくも、10年ごとに報道機関やジャーナリズムに対して意見を述べる機会を得てきたことになるが、20年も前の拙論に注目をしてくれた言論人が存在したことにまずは感謝と敬意を表したい。拙論の命脈が絶たれずにすんだからである。とは言え、拙論は好評を博したわけではさらさらなく、むしろかなり激烈な反発を受けた。2007年にさる学会で上述の著作の概要を述べたところ、「結局、新聞はエリートが作ればいいってことですか?」「あなたの見解だと、社論統一をする報道機関はジャーナリズムではないことになる。駒村説には反対です」と言われた。お二人とも当時も今も大活躍されている一線級の論者である。核心を突くご指摘をいただいたと今でも思っているが、私の行った問題提起あるいは危機感の表明、それ自体にも共有を拒否するという趣旨であったなら、とても残念である。

ジャーナリズムへの提言――三度目の正直?

 では、当時、私はどのような主張・提案を行ったのか。要約すれば以下のようになる。

 ①最高裁(博多駅テレビフィルム提出命令事件決定〈最大決昭44-11-26〉)は、「報道機関の報道」について、「民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである」と捉え、「奉仕者」としての報道像を打ち出している。かかる〝奉仕者モデル〟は他律的・受動的にすぎ、むしろ国政に直接的・主体的に関与する〝当事者モデル〟こそがメディアを救うと見る傾向がある。

 ②しかし、〝奉仕者モデル〟は、主体性なき橋渡し役に甘んじることをメディアに求めるものではない。むしろ逆である。そもそも、「国民の知る権利」への奉仕と一口に言っても、そこに言う「国民」も、国民の「知りたいこと」も自明ではなく、それはジャーナリズムの職能に照らして、不断の解釈によって究明されるべき事柄である。

 ③ジャーナリズムの使命の背後には、自己と世界を媒介するものを可能な限り排除して直接現実と向き合いたいと願う、世界了解に関するわれわれの根源的欲求がある(注1)。かかるわれわれの根源的欲求に応えるには、メディアがその語義にならい現実と国民をつなぐ「媒介」に徹し、その主体性を無化すべきだとの帰結がもたらされるわけではない。奉仕者の役割を引き受けるには、媒体に甘んじることなく、ジャーナリストの職能、――つまり、「批判精神・真実究明」「規範衝突・義務衝突の覚悟」「説明責任の公的遂行」「国民との情報確度の共有」等(注2)――を誠実に発揮し、表層的真相を疑い、世界を構成する事実を常に更新していかなければならない。それは、部数が多いとか放送周波数を利用できるとかの「媒体的な優位」がありさえすれば達成できるものではない。事案の深層を切り開き続け、権力者の重い口を開かせ、逮捕されても取材源は秘匿する、こういったしつこい作業は、到底市井の人々が日常的に実行できるものではない。「世界と個人を無媒介につなげるために両者を媒介する」という逆説の意味をよく理解した一群のプロフェッショナルたちが必要になる。

 ④報道メディアは、「媒体の優位性」ではなく、以上のような「職能の優位性」で勝負すべきである。インターネットの出現により前者の優位性を失いつつある今日ではなおさらであろう。

 ⑤報道機関に与えられるさまざまな特権は、上に見たようなジャーナリストの職能に秀でた者たちの集団、つまり「職能複合」としてのそれに与えられるべきだろう。社論の統一を通じて傾向団体化する報道機関は、むしろ「結社」に近い。特定の教説の下に結集した結社に特権を認める必要はない。

 20年前に述べ、そして10年前にも繰り返した、以上の見解は十数年前にそうだったように反発や冷笑を受けるだろう。しかし、基本的には変更するつもりはない。それどころか、三たびここに強調しておく必要を感じる。

(注1)玉木明『言語としてのニュー・ジャーナリズム』(1992年、學藝書林)19、62頁。
(注2)これらの〝職能〟の詳細については、駒村圭吾「職業としてのジャーナリズム」駒村圭吾・鈴木秀美編著『表現の自由Ⅱ―状況から』(2011年、尚学社)474~494頁参照。加えて、駒村圭吾「新聞は生き残る必要があるのか」新聞研究第657号(2006年)、駒村圭吾「新聞の公共性とは何か」新聞研究第747号(2013年)も参照賜りたい。

「報道の自由」「取材の自由」という〝特権〟

 私は先に「報道機関に与えられるさまざまな特権」と書いた。記者クラブ制とそれに伴う数々の行政・司法資料の優先的提供に始まり、新聞への軽減税率の適用に至るまで、今ではあたりまえの風景になってしまっているので、特権といってもピンとこないかもしれない。が、おそらくもっとピンとこないかもしれないが、それらに優るとも劣らない原理的特権が報道には与えられている。それは、ジャーナリストが享受する基本的人権は、「報道の自由」「取材の自由」というふうに、「表現の自由」という総称とは区別された固有名を与えられている、という特権である。先の①で触れた博多駅テレビフィルム提出命令事件決定がそれを打ち出したが、この決定を踏まえて、外務省機密漏洩事件(いわゆる西山記者事件)最高裁決定(最1小決昭和53-5-31)は次のように述べている。

 「報道機関が取材の目的で公務員に対し秘密を漏示するようにそそのかしたからといつて、そのことだけで、直ちに当該行為の違法性が推定されるものと解するのは相当ではなく、報道機関が公務員に対し根気強く執拗に説得ないし要請を続けることは、それが真に報道の目的からでたものであり、その手段・方法が法秩序全体の精神に照らし相当なものとして社会観念上是認されるものである限りは、実質的に違法性を欠き正当な業務行為というべきである。」

外務省機密漏洩事件をめぐって「報道の自由」などについて国会で答弁する佐藤栄作首相(当時)=1972年4月
 ここにジャーナリストに対する〝特権〟の付与と同時に〝職責〟の負荷が見て取れる。最高裁はジャーナリストに単なる「法を破る特権」を与えたのではなく、その本来的職責を果たす義務を負わせているのである。つまり、ジャーナリストを合法と違法の境界に立たしめ、報道・取材行為が、真にその職責に応えるものであれば、報道の自由・取材の自由という憲法上の権利を用いて、その違法性を阻却すると宣言したものと見るべきであろう。

記者逮捕で問われること

 ここで、やはり北海道新聞記者逮捕の事案に触れざるを得ない。不祥事と内紛に揺れる旭川医大が学長の解任を議論する非公開会議を2021年6月22日に開催した際、北海道新聞に所属する22歳の若手女性記者が大学構内に侵入し会議の様子を無断で録音していたところ、関係者に常人逮捕され、警察官が駆け付け、当該記者は身分と氏名等を明かしたが、旭川東署によって身柄を拘束された……という事案である。

 本事案について、7月7日、道新の社内調査報告が公表された。詳細は割愛するが、それに付された編集局長による声明によれば「今回の事件にひるむことなく、国民の『知る権利』のために尽くしてまいります」とあり、西山記者事件決定の趣旨とジャーナリズムの特権・職責への自覚と決意が、(ほんの少しであるが)垣間見られる言説が添えられている点に(これもほんの少しの)救いが感じられる。しかし、その後、いくつかの団体から逮捕に対する強力な批判と社内調査報告に対する厳しい非難が寄せられた(新聞労連、JCJ〈日本ジャーナリスト会議〉、メディアで働く女性ネットワーク)。他団体の声明の「迫力」と比較すると、道新のそれがあまりにも防衛的なトーンであるのは、コンプライアンスに厳しい昨今、理解できないではないが、自分自身に批判的でない者が他者を十分に批判することはできないはずだ。ここは報道機関の〝職能の尊厳〟にかけてもっとがんばってほしかった。

記者が逮捕された北海道新聞社・札幌本社=札幌市中央区
 論点は多岐にわたるが、三つだけ指摘しておきたい。第一に、建造物侵入罪が形式的に成立することはやむを得ないとしても、それが取材行為による違法性阻却という〝特権事例〟に該当するかどうかについての見解を示すべきだろう。該当するのなら逮捕に対し、「遺憾と言わざるを得ません」という、日ごろから批判してきたはずの政府答弁のような言いかたではなく厳しく非難すべきだろうし、該当しないのであればその問題点を明らかにするべきだ(注3)。憲法21条が認めた〝特権〟は、報道機関を規範の臨界に立たせる。それを切り分ける〝職責〟を期待するが故である。

 第二に、「記者の倫理上、無断録音は原則しないと定め」られていたのに、「指導が徹底されていませんでした」とある。第一の点とも関連するが、明らかにすべきは、「原則しない」のであれば、今回の録音はその例外に当たるか否かである。少なくともその基本指針を示さないと、多くの記者や現場にとっては萎縮効果をもたらしかねない。〝特権〟と〝職責〟は、記者を法の臨界のみならず倫理の臨界にも立たせる。

 第三に、他の団体の声明には散見できるが、道新の社内調査およびそれに付された編集局長声明には「報道の自由」や「取材の自由」の文字が全く見られない。「国民の『知る権利』のために尽くしてまいります」とのメッセージがあるものの、それは〝奉仕者モデル〟を表層的に掲げたにとどまる。むしろその奉仕に報道機関が主体的に職能をかけて取り組む姿勢を明らかにするためには、「報道の自由」「取材の自由」への言及こそ必須であり、それを忘れてほしくなかったところだ。おそらく、第一と第二の問題点の背後にある〝職責〟への認識の希薄さは、ここに原因があるのではないか。もちろん、道新一社だけの問題ではないだろう。大げさな言い方になるかもしれないが、ジャーナリストの〝職能の尊厳〟の回復と再定位が求められている。

(注3)いずれにしても、当該記者は(現場からなのか本社系統なのかは分明ではないが)業務命令的な流れで取材を行った以上、逮捕それ自体の批判とは別に、当該記者に対して弁護人をあてがうなど一定のリーガル・サポートを提供する必要があろう。

「媒体の優位性」という虚妄

 世界有数の発行部数と販売網を誇った新聞、放送免許制の下、周波数を独占的に利用して〝お茶の間〟を支配してきたテレビ、そして集中排除原則の不徹底の下で成立している新聞と放送の事実上の結合体制。こうした「媒体の優位性」をジャーナリズムの生命線と見る時代は過ぎ去った。そして、このような警告がなされて既に久しく、私自身冒頭の20年前の著作でも当然そのような言説を放ってきた。

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