駒村圭吾(こまむら・けいご) 慶應義塾大学法学部教授
1960年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒。法学博士。2005年から現職。慶應義塾高等学校長、慶應義塾常任理事等を歴任。専攻は憲法。ハーヴァード大学ライシャワー日本研究所憲法改正リサーチプロジェクト諮問委員。編著書に、『憲法訴訟の現代的転回』(日本評論社)、『テクストとしての判決』(有斐閣)、『「憲法改正」の比較政治学』(弘文堂)など。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
私は先に「報道機関に与えられるさまざまな特権」と書いた。記者クラブ制とそれに伴う数々の行政・司法資料の優先的提供に始まり、新聞への軽減税率の適用に至るまで、今ではあたりまえの風景になってしまっているので、特権といってもピンとこないかもしれない。が、おそらくもっとピンとこないかもしれないが、それらに優るとも劣らない原理的特権が報道には与えられている。それは、ジャーナリストが享受する基本的人権は、「報道の自由」「取材の自由」というふうに、「表現の自由」という総称とは区別された固有名を与えられている、という特権である。先の①で触れた博多駅テレビフィルム提出命令事件決定がそれを打ち出したが、この決定を踏まえて、外務省機密漏洩事件(いわゆる西山記者事件)最高裁決定(最1小決昭和53-5-31)は次のように述べている。
「報道機関が取材の目的で公務員に対し秘密を漏示するようにそそのかしたからといつて、そのことだけで、直ちに当該行為の違法性が推定されるものと解するのは相当ではなく、報道機関が公務員に対し根気強く執拗に説得ないし要請を続けることは、それが真に報道の目的からでたものであり、その手段・方法が法秩序全体の精神に照らし相当なものとして社会観念上是認されるものである限りは、実質的に違法性を欠き正当な業務行為というべきである。」
ここにジャーナリストに対する〝特権〟の付与と同時に〝職責〟の負荷が見て取れる。最高裁はジャーナリストに単なる「法を破る特権」を与えたのではなく、その本来的職責を果たす義務を負わせているのである。つまり、ジャーナリストを合法と違法の境界に立たしめ、報道・取材行為が、真にその職責に応えるものであれば、報道の自由・取材の自由という憲法上の権利を用いて、その違法性を阻却すると宣言したものと見るべきであろう。
ここで、やはり北海道新聞記者逮捕の事案に触れざるを得ない。不祥事と内紛に揺れる旭川医大が学長の解任を議論する非公開会議を2021年6月22日に開催した際、北海道新聞に所属する22歳の若手女性記者が大学構内に侵入し会議の様子を無断で録音していたところ、関係者に常人逮捕され、警察官が駆け付け、当該記者は身分と氏名等を明かしたが、旭川東署によって身柄を拘束された……という事案である。
本事案について、7月7日、道新の社内調査報告が公表された。詳細は割愛するが、それに付された編集局長による声明によれば「今回の事件にひるむことなく、国民の『知る権利』のために尽くしてまいります」とあり、西山記者事件決定の趣旨とジャーナリズムの特権・職責への自覚と決意が、(ほんの少しであるが)垣間見られる言説が添えられている点に(これもほんの少しの)救いが感じられる。しかし、その後、いくつかの団体から逮捕に対する強力な批判と社内調査報告に対する厳しい非難が寄せられた(新聞労連、JCJ〈日本ジャーナリスト会議〉、メディアで働く女性ネットワーク)。他団体の声明の「迫力」と比較すると、道新のそれがあまりにも防衛的なトーンであるのは、コンプライアンスに厳しい昨今、理解できないではないが、自分自身に批判的でない者が他者を十分に批判することはできないはずだ。ここは報道機関の〝職能の尊厳〟にかけてもっとがんばってほしかった。
論点は多岐にわたるが、三つだけ指摘しておきたい。第一に、建造物侵入罪が形式的に成立することはやむを得ないとしても、それが取材行為による違法性阻却という〝特権事例〟に該当するかどうかについての見解を示すべきだろう。該当するのなら逮捕に対し、「遺憾と言わざるを得ません」という、日ごろから批判してきたはずの政府答弁のような言いかたではなく厳しく非難すべきだろうし、該当しないのであればその問題点を明らかにするべきだ(注3)。憲法21条が認めた〝特権〟は、報道機関を規範の臨界に立たせる。それを切り分ける〝職責〟を期待するが故である。
第二に、「記者の倫理上、無断録音は原則しないと定め」られていたのに、「指導が徹底されていませんでした」とある。第一の点とも関連するが、明らかにすべきは、「原則しない」のであれば、今回の録音はその例外に当たるか否かである。少なくともその基本指針を示さないと、多くの記者や現場にとっては萎縮効果をもたらしかねない。〝特権〟と〝職責〟は、記者を法の臨界のみならず倫理の臨界にも立たせる。
第三に、他の団体の声明には散見できるが、道新の社内調査およびそれに付された編集局長声明には「報道の自由」や「取材の自由」の文字が全く見られない。「国民の『知る権利』のために尽くしてまいります」とのメッセージがあるものの、それは〝奉仕者モデル〟を表層的に掲げたにとどまる。むしろその奉仕に報道機関が主体的に職能をかけて取り組む姿勢を明らかにするためには、「報道の自由」「取材の自由」への言及こそ必須であり、それを忘れてほしくなかったところだ。おそらく、第一と第二の問題点の背後にある〝職責〟への認識の希薄さは、ここに原因があるのではないか。もちろん、道新一社だけの問題ではないだろう。大げさな言い方になるかもしれないが、ジャーナリストの〝職能の尊厳〟の回復と再定位が求められている。
(注3)いずれにしても、当該記者は(現場からなのか本社系統なのかは分明ではないが)業務命令的な流れで取材を行った以上、逮捕それ自体の批判とは別に、当該記者に対して弁護人をあてがうなど一定のリーガル・サポートを提供する必要があろう。