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政治と科学の望ましい関係は 新型コロナ対策で見えたもの

中田絢子 朝日新聞政治部記者

 菅義偉首相が自民党総裁選不出馬を決め、退陣することになった。9月29日に投開票の総裁選で、どの候補者が次のリーダーに選ばれたのか。いずれにしても、衆院議員の任期満了が10月21日に迫り、政治状況は予断を許さないことと思う。

 この1年半あまりの間、日本社会全体を覆っているコロナ禍は、間違いなく時の政権を翻弄し、間接的かもしれないにせよ、2人の首相を「ギブアップ」させた。安倍晋三前首相に代わって就任した菅首相は当初から一貫して「コロナ対策を最優先に取り組む」と強調してきた。しかし、政権発足から約1年の今夏、「第5波」に見舞われ、状況は日々政権の想定を超えるペースで悪化。一時はいわば「アンコントローラブル」に陥った。

 菅政権が「退場」に近づいた局面はさまざまあったが、やはりコロナ禍で開催した東京五輪をめぐる対応もその一つだと筆者は考える。春ごろの「第4波」の後、専門家と政府側との綱引きは、開幕が7月に迫った東京五輪の対応をめぐるものが中心となっていった。開催できるのか。できるとすればどんな形か。

 6月18日、政府にコロナ対応の助言をする新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長ら専門家は、政府の諮問機関としてではなく、「有志」の専門家の集まりという形を取り、東京五輪は無観客開催が、会場内のリスクが最も低く、望ましいという提言を政府と大会組織委に提出した。首相をはじめとする複数の政権幹部が有観客にこだわる中でのことだった。複数の関係者への取材を総合すると、提言を作成する過程では、尾身氏らと政府側との「綱引き」が繰り返され、メンバーのもとには有形無形の圧力がかかっていたことがうかがえた。

 例えば、提言は当初、もっと早い時期に提出することも模索されていたという。筆者は後に、首相官邸関係者が「結果的に6月9日の党首討論や、その直後の首相外遊の前に公表することは避けてもらえた」と漏らすのを聞いている。

 さらにその首相外遊では、首相が英国でのG7サミットで各国首脳から開催「支持」を取り付けたと発表。尾身氏らの提言のたたき台には当初、「開催の有無も検討」という趣旨の文言も含まれていたが、メンバーの1人は「あれが決定打になり、提言は開催を前提に無観客を求めていくことが軸になった」と振り返った。

会見を終えた菅義偉首相。左は政府の新型コロナウイルス対策分科会の尾身茂会長=2021年8月25日、首相官邸
 「無観客」が提言の軸になった後も、首相周辺は当初、「無観客ではなく、最小規模での開催ということならば受け入れられそうな状況だ。『伸びしろ』は自由だから」と官邸の雰囲気を語り、提言が骨抜きになる可能性すら示唆していた。尾身氏らメンバーのもとには、複数の政治家から提言内容について問い合わせる電話も寄せられていたという。こうした流れを追っていくと、政治の側は開催国の責任を背景に、専門家側となんとか歩み寄れないか、かなり神経をとがらせていたのだと思う。裏を返せば、その働きかけは、あの手この手で専門家の手足を縛ろうとする動きにも思えた。

 東京五輪はその後、「上限1万人」とする有観客開催で行われることが決まり、専門家の提言を退けた形になった。しかし、首都圏の感染状況は悪化の一途をたどる。日増しに五輪に対する懸念の声が高まるようになり、7月4日の東京都議選で自民は過去2番目に少ない議席数に低迷。その後、7月12日に4度目の緊急事態宣言が発出されるに至り、連動して五輪は多くの会場で無観客で開催されることになった。首相周辺からは「追い込まれての無観客だった」と後悔の声が漏れた。

 この五輪をめぐる動きに象徴されるように、コロナ禍が日本を襲って以降、時に対立し、時に歩み寄りつつ、政府の「伴走者」となってきたのが、元世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局長の尾身氏を中心とした分科会に名を連ねる専門家たちだ。政府のコロナ対応を取材する上で、政府は専門家に何を求め、どんなやりとりを経た上で対策を打ち出しているのかは、知るべきファクトだ。私は政治家、政府関係者を取材する傍ら、そんな必然性から尾身氏ら専門家への取材を開始した。約1年にわたる取材から見えた政治と科学の関係の一端を、許される範囲でここにご報告する。

時に対立し、時に歩み寄り

 菅首相の解散権を事実上封じ、政権を土俵際まで追い込んだのはまさに新型コロナの感染状況と言える。新規感染者数が増えることと連動するように、内閣支持率は低下の一途をたどり、8月22日には「おひざもと」の横浜市長選で菅首相が支援した候補が惨敗。「選挙の顔」としての役割に疑問符が付いた首相にとって、総裁選を無風で乗り切るのは難しくなっていった。少なくとも初夏の頃までは、首相に近い自民党幹部は他の候補が誰も出ない「無投票再選」で総裁選を乗り切るシナリオを描いていたとされるが、都議選での低調ぶり、横浜市長選の惨敗以降、党内では公然と「菅首相では選挙を戦えない」との声があがるようになった。

 衆院選の前に総裁選を行えば、無派閥で党内基盤の弱い菅首相がかならず再選に持ち込めるかは不透明な情勢で、首相周辺は「総裁選の前に衆院を解散して総選挙に持ち込み、少なくとも総選挙の前に引きずり下ろされるのは避ける」という選択も視野に入れるようになった。

 ただ、ここで問題になるのが「第5波」と呼ばれた感染爆発だ。常々「コロナ対策を最優先」に掲げている菅首相にとって、緊急事態宣言中の衆院解散は「あり得ない」(官邸関係者)。裏を返せば、東京などに発出されていた緊急事態宣言が、期限である9月12日に解除できるような状況に持ち込めれば、解散に打って出る環境が整うことにつながるというわけだ。

 8月31日夜、毎日新聞が「スクープ」として、「首相、9月中旬解散意向 党役員人事・内閣改造後」との見出しの記事を配信。首相周辺に取材したところ、「解散できるかどうかはあくまでコロナの感染状況次第だ。緊急事態宣言が解除できない場合は解散はできない」との回答だった。菅首相自身、翌朝の官邸エントランスでの「ぶら下がり会見」で「最優先は新型コロナ対策。今のような厳しい状況では、解散ができる状況ではない」と全面否定した。

 宣言の解除をめぐり、尾身氏は国会などで「医療の逼迫がどれほど軽減されるかを考えるべきだ」と繰り返し訴えてきたが、8月末時点で東京は病床使用率が66%、重症者用病床の使用率に至っては100%と、いずれも「感染爆発」状態が続いていた。新規感染者数は減少傾向に転じていたものの、医療逼迫の解消にはそれからさらに一定の時間を要するとされているため、分科会メンバーの中でも「9月12日の解除は難しいのではないか」という見方が出ていた。

 そもそも、この4回目の緊急事態宣言の期限が9月12日までに延長されたのは8月17日。その頃には、自民党総裁選の日程が9月17日告示でスタートしてしまうことがほぼ確定的になっていたため、9月12日という期限は総裁選の前に解散を判断できるぎりぎりのタイミングということで設定されたと指摘された。

政権存続への配慮は?

 8月17日に決まった宣言の「小幅延長」をめぐり、翌18日の朝日新聞朝刊には、首相が感染状況について「8月末になれば雰囲気は変わる」と周辺に話していたことが紹介されている。緊急事態宣言の行方は首相の解散戦略に直結するため、官邸関係者は「まさに尾身さんがカギを握っている」と自嘲してみせた。

 それを聞き、筆者は、尾身氏が9月12日の解除判断をするにあたり、コロナ対策を継続する観点から政権の存続に配慮し、宣言解除に傾く可能性があるかどうか、ふとそんな疑問を抱き、日々尾身氏と連絡を取り合っている関係者に尋ねてみた。回答は「まったく配慮しないと思う」といういわば当然の見方だった。

 すでに医療現場は逼迫の極みとなっていた。東京では自宅療養者が2万人を超え、自宅で死亡するケースまで出てきていた。この関係者は「むしろ尾身さんは、政治の側に、もっと客観的に状況を把握でき、都合の悪い情報にも耳を傾けてくれるリーダーを望んでいるように感じる」と解説した。

 6月に東京五輪の無観客開催を提言する前後から、尾身氏は夏の感染拡大にかつてない危機感を募らせ、「歴史の審判を受けるつもりで、必要な提言を行う」との決意を固めていたのだろう。尾身氏からみれば、有観客にこだわった末、現実に押される形で無観客に転じた経緯も含め、政府側の後手にまわったようにも見える対応は、リーダーとしての「哲学がない」と映ったのではないか。

 こうした五輪をめぐる対応は、昨年、尾身氏が首相肝いりの経済支援策「Go To キャンペーン」の一時停止に動いたことを思い起こさせた。

 「第3波」と言われた感染拡大が顕著になっていた11月20日。コロナ担当の西村康稔経済再生相の携帯電話が鳴った。「もう持ちませんよ」。尾身氏だった。

 関係者によると、この電話で尾身氏は、年末年始にかけてさらに感染が拡大するのを防ぐため、「Go To トラベル」の見なおしを訴えたという。西村氏は「総理に相談します」と応じ、同日に官邸で菅首相と面会。こうした見解を伝えたが、この時の「進言」は聞き入れられなかった。それでも夕方に開催された分科会で、尾身氏らは「感染拡大地域では一部区域の除外検討」を求める提言を採択し、会見で「政府の英断を心からお願いしたい」と訴えた。

「ルビコン川を渡った」

 実は、尾身氏はこの1週間ほど前から、キャンペーンに伴う感染を抑えるため、ルールの厳格化が必要だと考え、内々に政府側に意見を伝達していた。

 ただ、「除外」という言葉を盛り込んだ提言に踏み切ろうと決断したのはこの日の朝。最後まで悩んだことがうかがえた。「Go To キャンペーン」は、「ウィズ・コロナ」時代を見据え、社会経済活動と感染対策の両立を目指した重要なものだと理解していただけに、一足飛びに停止に追い込めるものではなかった。実際、この頃は首相官邸幹部も「経済は、一度止めてしまうと回復に時間を要する」と語り、キャンペーンを見なおすことに否定的な姿勢を鮮明にしていた。

 すでに都内では、呼吸管理が必要な患者が増加し、医療現場からは苦しい声が聞こえ始めていた。尾身氏は「政治家も官僚も言わないことだから、自分が言おう」と踏み切ったようだった。同夜の会見後、内閣府から地下鉄の駅へと歩き出した尾身氏を追いかけ、「総理への『進言』は聞き入れられなかったようだが、それでもなぜ提言を出したのか」と問うと、尾身氏は「もうルビコン川を渡った。引き下がれない」と言葉少なだった。

 ある分科会メンバーは、決断の理由について、このまま感染拡大が続き、状況がコントロールできなくなったら、この波の収束は春先までかかる。そうなったら予定されている東京五輪の開催も不透明になるかもしれない。ここで一旦立ち止まることが、結果的に経済全体にとって良いとの結論に達した、と解説した。結局、菅首相が「トラベル」の全国一斉停止を決断したのは12月半ば。東京をはじめとする主要都市で深刻化していく感染状況の後を追うような対応に「後手」批判が起きた。

 ただ、尾身氏の記者会見などを度々取材する中でひしひしと感じていたのは、尾身氏は一貫して、「政府vs.専門家」という対立構造に当てはめた報じられ方をすることを危惧していたということだ。

 コロナ禍が日本を襲い、尾身氏や、「8割おじさん」として知られるようになった西浦博・京大教授らがメディアに登場するようになって以降、テレビ、新聞、週刊誌などあらゆるメディアで度々「首相官邸vs.政府分科会」というようなストーリーが取り上げられた。特に、昨年6月に西村経済再生相が突然、尾身氏ら感染症の専門家が中心となっていた「専門家会議」を「廃止します」と表明すると、政府側に批判が殺到した。

 しかし、

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