オリンピックという略奪
市民はオリンピックと手を切るべきである。なぜなら、オリンピックはスポーツの好き嫌い、選手たちへの応援や競技への興味の問題などではなく、一つの国際NGO主催にもかかわらず国家事業の体裁をとって巨額の公的資金を投入し、その資金源であるはずの市民の生活を将来にわたって破壊する出来事だからだ。
すでに化けの皮は見事に剥がれている。4年に1度開催されることが「自然」なことではなく、人為的に企図されたグローバル興行であり、競技は見世物(スペクタクル)なのであり、興行であるからにはそれを継続させるための収益を生む工夫がなされる。それは資本主義のルールにのっとってなされていると思いきや、今も昔も、まったくの「ぼったくり」=略奪であることがバレてしまった。
それに気づいた市民一人一人が「わしがよんだわけじゃない」とは思っていても、「オリンピックはひとりでかってにやってきたわけではない」のである。作家の小田実が1964年の東京大会に際して記したエッセイをこう締めくくっている(「わしがよんだわけじゃない」講談社編『東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典』2014年)。オリンピックと、それとセットにならなければ開催できないパラリンピックを招致し、開催し、その過程で生じた社会的、経済的、政治的、生存的不都合や不利益を結果的に被るのは誰か、またそれに対する責任を取るのは誰か。それをしっかり考えろと、小田は言っていたのだ。
オリンピック(パラリンピックともに)と手を切るべき理由は、新型コロナウイルスによる感染症の爆発的増加と医療崩壊と、それらを招いた為政者の統治能力の欠如があからさまになる以前にはっきりしていた。開催直前の様々な世論調査で示された6割から8割の国民が開催の延期か中止を求めている結果を受けて、ディック・パウンドIOC委員はそれでも「開催したらきっと成功を喜ぶことだろう」(「週刊文春」21年6月3日号)とうそぶいた。宗主国が被植民地者を「子ども扱い」するのと同じで、まあ、バカにされたものである。しかしこれは、開催地の危機的状況を考慮するよりも「オリンピズム」を継続させようというIOCの傲慢な帝国主義的態度をわかりやすく表しているだけでなく、「開催」さえしてしまえばそれはほぼ自動的に「成功」なのだという、社会学者の阿部潔がレガシーの「先物取引」と呼んで強烈に批判したIOC上層部の認識をさらけ出すことになった(『東京オリンピックの社会学 危機と祝祭の2020 JAPAN』コモンズ、20年)。コロナがあろうがなかろうが、東京はすでにこの「先物取引」に不可欠な銘柄だったのだ。
数々の不祥事の「浄化」を期待されたはずの聖火リレーは、各地の期待を裏切るコース変更とえげつないスポンサーの宣伝手法のために大コケした。しかしそれはありうべきオリンピックの姿を歪めている行き過ぎた商業主義への「反省点」として総括された。開会式直前の生放送で唯一光ったサンドウィッチマン富澤たけしによる不祥事当事者たちの「炎上の炎を聖火台へ」発言も、式典自体があまりにも間の抜けたものだったがゆえに、実際競技が始まるとガス抜き程度のインパクトしか持たなかった。マスメディアは選手の活躍に「喜ぶ」姿や風景ばかりを切り取り、東京駅前の丸の内中央広場に設けられた「カウントダウン時計」周辺の閑散は映さなかった。

無観客で開かれた東京五輪の閉会式=2021年8月8日、東京・国立競技場