メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

つきまとう入管収容の恐怖 “東京クルド”の絶望を撮る

日向史有 映画監督

追い返された救急車

 10代のラマザンとオザンにとって、なにより恐怖なのは「収容」だった。仮放免の許可延長が認められなければ、入管施設に収容されることになるのだが、その日時や具体的な理由などが当事者に知らされることはない。すべてが入管の裁量によって決められている。例えば、オザンの従兄弟は、仮放免の延長申請のために月に一度、入管に出頭していたのだが、ある時、「今日からここに泊まることになっています」と唐突に告げられ、そのまま1年2カ月間収容された。この「収容」は、成人するとそのリスクが高まるとクルド人のあいだでは言われている。ラマザンとオザンも、「まあ、かならず、いつかは収容されます」と自嘲ぎみに、そして、まるで大人になるための通過儀礼であるかのように話していた。収容者は、収容されるとすぐに、解放を求めて仮放免許可を申請する。結果が出るのは約2カ月後で、不許可ならまた申請をする。許可が認められる基準は、収容者には分からない。収容者は不許可とされる限り、延々と申請を続けなければならないのだ。

 このような状況に置かれることで、収容者のなかには身体や精神を壊してしまう者もいる。オザンの従兄弟は収容中、鉛筆削りを分解して小さな刃を取り出し、自殺を図った。幸い、未遂に終わったが、2度目の仮放免申請が不許可になった夜に、「どうして良いか分からなくて、もう終わらせよう」と自身の身体を切りつけてしまったのだった。

 「東京クルド」には、当時収容中だったラマザンの叔父、チョラク・メメット(Colak Mehmet・当時38歳)も登場する。彼は18年1月から収容されていた。1年後の19年3月、ニュースにもなった事件が起きた。その日、メメットは、突然頭や胸に痛みを感じ、職員に助けを求めた。しかし、適切な医療行為を受けさせてもらえず、ほとんど放置の状態にされてしまった。翌日、メメットは家族に電話で助けを求め、家族や支援者が救急車を呼んだが、救急車は入管によって追い返された。その日のうちに、家族はふたたび救急車を呼んだが、2度目も救急車での搬送は認められなかった。その翌日、メメットが体調に異変を訴えてから約30時間後、彼はようやく病院に行くことができた。入管の担当者は詐病を疑ったのかもしれないが、メメットと同室だった収容者がその時の様子を次のように書き留めている。

 「突然就寝したと思われるCOLAK様は、弱々しい声で“俺は死にそう”といいならが、インターホンの所によろめきながら近よって来ました。ボタンを押し口咆ったような口調で“担当様早く来て私を助けで下さい”と救援をお願いしました。但しCOLAK様は言葉を発つことさえできなかったので、担当職員は聴き取れなかったらしく、代りに同室の人は、応答しました。“人は倒れています。……そしたらCOLAK様は痙攣を起し始めた。頭を胸元に垂らし、目元、髪生際には発汗、口元に泡を吹し、ひたすらに喘ぎながら部屋の隅に座り入みました。救護救命及び蘇生の知識の皆無私たち(7室は6人同居)はパニックに落ち入り……」(原文ママ)

 メメットによると、このあと意識を失ってしまったということだ。

 このメモからは、メメットの異常な状態が伝わってくる。今年、名古屋入管で亡くなったスリランカ人女性のように、メメットにも死の危険があったかもしれない。入管の統計によると07年以降、収容中に死亡した外国人は17人、そのうち5人は自殺だ。毎年のように、収容者が死亡している。いつまでこのような状況が続くのだろうか。

拡大東京入管の格子のついた窓辺から外をのぞむチョラク・メメット(映画「東京クルド」からⓒ2021 DOCUMENTARY JAPAN INC.)
 私が初めてメメットと面会したのは、この事件の数日後だった。
・・・ログインして読む
(残り:約3091文字/本文:約7451文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

日向史有

日向史有(ひゅうが・ふみあり) 映画監督

1980年、東京都生まれ。ドキュメンタリージャパン所属。ウクライナで徴兵制度に葛藤する若者を追った「銃は取るべきか」(NHK BS1)や在日シリア人難民の家族を映した「となりのシリア人」(日本テレビ)を制作。難民申請を続ける在留クルド人青年を描いた映画「東京クルド」を監督。今年、ディレクターを務めた「村本大輔はなぜテレビから消えたのか?」(BS12)が衛星放送協会オリジナル番組アワード・グランプリ受賞。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです