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「思想の自由市場」論の前提変容 マスメディアの役割再強化を

曽我部真裕 京都大学法学部・同大大学院法学研究科教授

はじめに

 2021年8月に公表された総務省の調査によると、2020年度の10代男性の平日1日あたりの新聞閲読時間の平均は2.5分、10代女性に至っては0.3分であり、いずれもラジオ聴取時間よりも短い(注1)。同じく、テレビ(リアルタイム)視聴時間は、10代男性69.7分、10代女性76.6分であった。新聞に関しては、60代が突出して長く(男女併せた平均は23.2分)、50代がそれに次ぎ(同11.9分)、40代以下は10代と大差ない状況であるのに対し、テレビでは10代と似た傾向にあるのは20代(同88.0分)だけで、30代(135.4分)以上はそれ未満よりも大幅に長い。

 新聞の閲読習慣の減少は継続的に進行してきたのに対し、テレビ離れは動画共有系のSNSが急成長したこの10年足らずの間に急速に進んできたのかもしれない。いずれにしても、マスメディアの危機的な状況はますます明白になっている。

 本稿では、憲法論の表現の自由の観点から、これまでの表現の自由論の前提が変容したこと、そうした中で、積極的な「情報空間」政策が求められることを述べた上で、何がマスメディア企業に求められているのかについて考えてみたい。

表現の自由を支える理論

 表現の自由論の基礎にある考え方の一つが、「思想の自由市場」論である。自由な表現を認めることによって多様な情報が流通し、誤った事実や考え方は反論や批判によって淘汰され、真実が残るなどとする考え方である。そこからすれば、実際には無謬ではない国家が自らの善悪や真偽の判断を表現規制によって強制すべきではないことになる。

 このような思想の自由市場論には明示または黙示の前提がある。本稿の議論展開を先取りして言えば、今日、こうした前提を問い直さざるを得なくなった結果、思想の自由市場論に無条件に依拠するわけには行かなくなっているのではないかと考えられる。

 思想の自由市場論の前提とは、①市場に流通する情報量は多ければ多いほうがよい、②そのためには国家の介入は少ないほどよい、③情報の受け手は自律性を有し、情報の選別・判断能力を備えている、などであろう。

 ③について補足しておくと、情報空間に登場する主張とそれに対する反論・批判とのいずれが妥当かを判断するのは表現の受け手であることが想定されており、そこには、受け手の情報選別・判断能力に対する信頼が存在する。その反面、国家が情報の真偽や信頼性を判断して規制することは許されない。内容規制が厳格に審査されるべき理由の一つは、ここにある。

 思想の自由市場論は、20世紀の初頭のアメリカで主張され始めたものであるが、その後、アメリカのみならず戦後日本でも、表現の自由の重要性を支える理論の一つとして重視されてきた。

 もっとも、現実には、テレビを中心としてマスメディアの存在が大きくなり、マスメディアによる情報空間の独占・寡占の弊害が主張され、思想の自由市場論の観点から批判されるようになった。こうした状況への対応としては、次のようなものが挙げられる。

 第一に、受け手の「権利」、すなわち「知る権利」の議論である。知る権利とマスメディアとの関係は多義的であるが、重要なのは、報道機関としてのマスメディアが国民の知る権利に奉仕するものとして位置づけられ、そのためにマスメディアの自由(報道の自由)が憲法上も重要な権利として受け入れられたことである。最高裁も、博多駅事件(最大決1969年11月26日刑集23巻11号1490頁)で、「報道機関の報道は(……)国民の『知る権利』に奉仕するもの」と述べている。

 第二に、マスメディアの中でも放送制度の制度設計への影響である。放送の自由は表現の自由として保障されると言われつつも、免許制(電波法4条)や番組編集準則(放送法4条)など、ほかの表現手段にはない特別な制約が許されると考えられてきた。こうした特別な制約を基礎づける事由の一つとして、公衆の知る権利の充足ということがある。最高裁も、NHK受信料事件(最大判2017年12月6日民集71巻10号1817頁)において、「放送は(……)国民の知る権利を実質的に充足し,健全な民主主義の発達に寄与するものとして、国民に広く普及されるべきものである」としているところである。

 なお、NHKという公共放送の設置も、表現主体に規制を課さずに知る権利の充足を図るための国家の介入の一類型だと言える。このほか、マスメディア集中排除原則は、表現内容に規制を行うことなく、表現の多元性、多様性、地域性の確保を建前とする国家介入である。

 このように、放送に関しては、本稿で言う情報空間政策が一定程度展開されてきた。

(注1)総務省情報通信政策研究所「令和2年度情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査報告書」(2021年8月)14頁。

「情報に関する情報」不足

 その後、日本では2010年前後から、現在でも広く利用されているようなソーシャルメディアが普及してきた。それ以前は、一般の個人には有効な表現手段があまりなく、マスメディアの独占・寡占が問題とされてきたのに対し、ソーシャルメディアによって、誰でも簡単に、全国あるいは世界中に向かって発信することができるようになった。思想の自由市場の理想に大きく接近したようにも見える。

 しかし、このような状況は、個人の情報処理能力を遥かに超える量の情報が、未整理の形で流通するようになったことをも意味する。

 例えば、新型コロナウイルス感染危機に即して言えば、この感染症に関する真偽不明の情報が多数流通しており、しかも、それは医師や、専門家を名乗る者によっても発信されていた。こうした場合に、素人である個人が多くの情報を収集・分析して、何が信頼に値するものであるかを判断することは極めて困難である。

 かつてであれば、マスメディアが曲がりなりにも信頼に値する専門家を選別して一定の質の担保された情報を提供していたところ、こうしたフィルターが弱体化し、序列づけされずにフラットに提示される多くの情報の信頼性を個人が判断しなければならなくなった。そこに混乱が生まれる。

 思想の自由市場においてすべての情報は吟味・淘汰されうるにしても、ある時点をとれば、暫定的ではあっても、真実に近い情報やオルタナティブな情報といった位置づけが存在することが通常である。従来であれば、例えば、新聞や公共放送で取り上げられる情報は確度が高く、また、公共性の高いものである一方で、週刊誌では不確かなものもありうるといった形で情報に関する情報が可視化されていた(この「情報に関する情報」を、「情報に関するメタ情報」と呼んでおく)。

 ソーシャルメディア上では、情報に関するメタ情報が不足しがちであり、それに応じて、情報空間が不安定化しやすい状態である。

 これに対処しようと思えば、ひとまず考えられるのは国家の政策的介入によるマスメディアの役割の再強化であろう。実際、ソーシャルメディアの隆盛に反比例するように、産業としてのマスメディアは衰退が続いている。状況の深刻化が日本よりも一足先に明らかになっている欧米諸国では政策的な対応が図られつつあるが、日本でもこの先、ソーシャルメディア状況に適応した形でのマスメディアの復権をどのように構想するのかが問われることになろう。

 ところで、先に、思想の自由市場論の前提として、「情報の受け手は、自律性を有し、情報の選別・判断能力を備えている」ということがあるのではないかとも述べた。ソーシャルメディアの普及によって自由市場の理念型に近い状況が生じた今日、こうした前提の当否が問われている(注2)

 すなわち、マスメディア(総合編成のテレビ放送や、政治面から家庭・文化面まで広く扱う新聞)によってパッケージとして情報が提供される方法が廃れ、個々の情報を選択的に摂取する形で情報に接するようになった結果、情報の受け手の自律性や選別・判断能力の有無が正面から問われる状況になった。しかし、実際にはこうした能力は十分でない結果、もとから受け手が有していたバイアスが強化されて極端な考え方を持つに至ったり、他者から操作されるおそれが懸念されるようになっている。

 玉石混交の情報が吟味されることなく情報空間に放出されることにより、人々の情報選別・判断能力の限界の問題が顕在化している。この点、AIによるものも含めたアルゴリズムの助力を得て、各人の考えに合致した情報を選択的に摂取できるようになっているわけである(注3)。選択的接触が強まる結果、自らのバイアスを強化するような情報にばかり接することになり、集団極化現象が生じるおそれも指摘され、アメリカではそれがすでに現実の問題として語られているようである。現在の日本では一部の層において見られるにとどまっているものの、注視が必要であろう。

 さらに、前述のように、ソーシャルメディアで流通する情報の膨大さゆえに、個人は、フォローする人物を選択することも含め、接する情報をあらかじめ何らかの形で設定することになる。さらに、ソーシャルメディアは、当該個人が接している情報から、その者が好みそうな情報やユーザーを提案し、それを受け入れることによって更にパーソナライズされた情報に接触することができる。

 このことは、効率的な情報収集にとって有益であることはもちろんではあるが、他方で、前述のように、本人がもっているバイアスを強め、その者の思想や行動を極端なものにしていくおそれがある。さらに、ソーシャルメディアがもつ、個人の趣味嗜好に合わせた情報を提供する能力は、政治的あるいは商業的な動機に基づいて個人を積極的に操作する行為にも利用される可能性がある。

 要するに、思想の自由市場の理想に近い姿が現実のものとなった結果、①市場に流通する情報量は多ければ多いほうがよい、②そのためには国家の介入は少ないほどよい、③情報の受け手は自律性を有し、情報の選別・判断能力を備えている、といった自由市場論の前提のゆらぎ、あるいは楽観性が顕になってきていると言える。

 そうすると、国家介入をひたすらに拒絶するのではなく、一定の国家介入が求められることを前提に、その適切な姿を議論する姿勢が今後は求められる。情報空間政策の必要性である。

(注2)水谷瑛嗣郎「マス・メディアの自由と特権」山本龍彦・横大道聡(編著)『憲法学の現在地』(日本評論社、2020年)198-199頁参照。
(注3)AIによる操作を通じた個人の自律の侵害については、山本龍彦が精力的に論じている。例えば、山本龍彦(編著)『AIと憲法』(日本経済新聞出版社、2018年)序章及び第1章(山本)。

適切な規律と政策、議論を

 最後に、マスメディア企業に求められていると思われることをいくつか述べてみたい

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