アイティメディア社長兼CEO 大槻利樹さんに聞く
2022年02月23日
日本最大級の総合情報ポータルサイトであるYahoo! Japan(ヤフージャパン)が1996年にスタートして四半世紀が過ぎました。その旗揚げに関わった大槻利樹さんは、IT分野の総合情報サイトを運営するアイティメディアの社長として20年余り、競争の激しいネットの世界を勝ち抜いてきました。日本のウェブサイト発展の歴史とも重なる山あり谷ありの社長人生を振り返りつつ、ネットの世界で生き抜くために何が必要か、ウェブサイトに託してきたこと、さらにネットメディアの将来のあり方などについて聞きました。(聞き手 朝日新聞「論座」前編集長・吉田貴文/写真 小林正明)
――アイティメディアの設立以来、ずっと社長を務められていますが、心がけてきたことは何ですか。
大槻 ビジネスモデルの開発ですね。自ら先頭にたって、「稼ぐこと」にコミットしてきました。2000年代初めのITバブル崩壊や08年のリーマン・ショックなど苦しい時期は幾度もありましたが、ビジネスモデルの開発に正面から取り組んだからこそ、危機を乗り越えられたと思います。
――ここは非常に興味深いお話なので後で詳しくお聞きするとして、その前に大槻さんが経験された日本のウェブサイトの変遷についてお聞きしたいと思います。そもそもインターネットに関わりを持つようになったのはいつからですか。
大槻 日本でウィンドウズ95が発売された1995年頃でしょうか。孫正義社長の秘書を6年間務めた後、出版事業でパソコン雑誌を手がけたのがきっかけです。
――95年には朝日新聞も「アサヒ・コム」をスタートさせています。インターネットが普及し始めた頃ですね。
大槻 はい。そこでメディアビジネスの面白さに目覚めつつあった時、孫社長から突然、集まるように言われました。1996年1月8日です。
行ってみると、ソフトバンクの幹部ら7、8人が集まっていました。出版部門の責任者で孫社長の片腕だった橋本五郎さん、ヤフージャパンの創業社長になる井上雅博さん、伊藤穣一さん(ベンチャーキャピタリスト)、Yahoo!創業者のジェリー・ヤンさんらがいたかな。その場で孫さんが、「これからソフトバンクはインターネットの会社になる」と宣言したんです。
で、「大槻ね、ヤフーにはインターネット広告っていうのがあるらしい。ジェリー・ヤンのところで勉強して、サイトのスタート時からネット広告をのせろ」と指示されました。社長になる井上さんには「コンテンツを準備しろ」と言っていましたね。
すぐにアメリカに行き、ジェリーのもとでネット広告について勉強しました。当時のメモも残っていますよ。96年1月18日付。下手な英語でジェリーにアメリカのセールスの仕方を尋ねています。
――ヤフージャパンのサイトローンチは4月1日。間に合ったのですか。
大槻 サイト開始と同時になんとかネット広告も始めました。かなり強引でしたが、IBMなど理解のある会社が応じてくれました。孫社長は後で「ヤフージャパンはスタートした4月から黒字だよ」と自慢していましたが、僕が広告をとってきて黒字にしたと自負しています。
――日本のネット広告の草創期ですね。
大槻 ええ。間髪入れず孫社長からインターネット広告の専門会社をつくれという指示がきて、電通と組んで6月にサイバー・コミュニケーションズという会社を立ち上げ、7月からヤフージャパンの広告を取り扱うようになりました。
――「インターネット宣言」に沿って、着々と手を打っていますね。
大槻 孫社長のビジョンは明確でした。下部構造としてネットインフラをつくる。それがYahoo! BBです。その上にポータルサイトのヤフージャパンをつくり、様々なコンテンツをのせていく。孫さんは、インターネットエコノミーが間違いなくできると、早くから予言していました。
そこでインターネットメディアを始めたのですが、どうもしっくりこない。
――違和感があったということですか?
大槻 ネットメディアは、自分がやってきた出版ビジネスとは、投資の対象となるインフラも、ビジネスとしての収益モデルも全く違う。似て非なるものです。そこで孫社長に、「別の会社にさせてください。社長は私がやります」と言って99年につくったのが、ソフトバンクグループ初のオンライン出版企業ソフトバンク・ジーディーネット株式会社。ソフトバンクが買収した米国ジーディーネットとのジョイントベンチャーです。
ジーディーネットとは2004年に合弁契約を解消しますが、事実上、ここからアイティメディアがスタートしました。
大槻 いわゆるネットバブルがはじけてサイトの運営が苦しくなると、既存メディアは本業に回帰しました。新聞社で言えば、あくまで新聞が中心で、ネットはそれにつけるサービスの一つだというわけです。でも、うちはインターネットだけで勝負すると決めて、退路がなかったので、ネット上でどうやって資金を回し、稼いだらいいか、とことん考えました。
インターネット上で100%ビジネスをやっていることが強みとなり、ネット広告は着実に伸びていました。ただ、ネット広告は足腰が弱く、景気が悪くなると一気に減ります。広告以外の収益源をつくらないとやばいと真剣に思いました。迷いながら、新しいビジネスモデルを必死で模索する毎日でしたね。
――2006年5月に米国のTechTarget,Inc.と提携してリードジェネレーションビジネスを開始。07年には東京証券取引所マザーズに上場、株式公開を実現しました。
大槻 当社にとって最大の転機は、TechTargetのリードジェンビジネスを取り入れたことです。このビジネスを知った時、「これはアイティメディアとすごく相性がいい」とピンときて、すぐ提携に踏み切りました。
――リードジェンビジネスとは何ですか。
大槻 ある会社の製品やサービスに関心を持つ会社や個人、いわゆる見込み顧客(リード)を獲得するための活動、いわゆる「リードジェネレーション」を提供するビジネスのことです。
アイティメディアのコンテンツは主にITに関する専門情報。たとえば、セキュリティーシステムを導入したどの企業がどう成功させたのか、というような情報です。専門性が高く、不特定多数ではなく、役に立つ人たちが限られた情報とも言えます。
その特性を生かし、セキュリティー系の情報をその情報に関心のある人に次々と出し、「いいね」と思ってもらえた人に個人情報を登録してもらう。その情報を、登録していただいた企業にコンタクト先も含めてお示しするというのが、このサービスの基本形です。アイティメディアが載せる情報には間違いがない。登録しても大丈夫という信頼を得てきたからこそできるビジネスです。
ソフトバンクで出版事業をした経験から、僕はテクノロジー企業が大手顧客の情報をいかに欲しがっているかということを知っていました。雑誌だと読者アンケートのはがきなどで個人情報を集めますが、ネットメディアだと画面上で「登録」してもらうことで簡単に情報を集められます。その情報をネットでシームレスに24時間365日、企業に提供できるのはすごいことです。リードジェンは間違いなく収益源になると確信しました。
――08年9月にリーマン・ショックが起きます。当時の業績を振り返ると、09年度、10年度と営業利益は赤字に転落、厳しい状況が続いています。
大槻 孫社長から「赤字になってこれからどうするんだ」と聞かれ、打開策を必死に考えました。会社の責任者として株主にも社員にも申し訳なく、相当に苦しくて、夜中に金縛りにあってベッドから落ちたこともありました。社員は切りたくないので、報酬を一律カット。基本的に社長が30%、現場は5%ぐらいです。辞めた人もいましたが、それで現場に危機感が生まれたのは嬉しかった。
苦しい時は原点に戻る。自分は何をしたかったのか、あらためて考えました。「テクノロジー情報に関するトップメディアになる」というのが創業時からの目標。とすれば、コンテンツを充実させて良質の読者、企業を獲得したうえで、リードジェンビジネスの質を向上し、収益を増やすしかないと思い定めました。
――確かに10年にはリードジェネレーション(見込み顧客の獲得活動)マーケティングの質的な向上を目指すリード研究所を立ち上げています。11年度には営業利益を黒字に戻していますが、なんとかいけそうだと思えたのはいつ頃ですか。
大槻 13年ぐらいでしょうか。リードジェンと似たサービスを提供していたリクルートとの競争の中でブレークスルーが生まれました。一番のポイントは価格戦略を変えたこと。リードジェンでは、個人のアカウントと個人情報をいただくわけですが、以前のモデルは、それを「広告」のように、リード収集を行う「期間」を保証してお金をいただいていました。それを個人1人の情報をたとえば1万円で提供するという「単価ビジネス」に変えたのです。
「広告」パターンだと、同じ期間で100人の情報がとれる時もあれば、10人の時もある。だから、営業にしてみれば、クレームを受けないように、100人くらいは取れますよと言って、200人分の情報を出しがち。どうしてもオーバーサービスになります。それでは無駄が多いので、いっそのこと単価ビジネスにしようと考えたのです。個人について難しい条件をつけられたら、そのぶん値段を上げていく。この「プライスストラテジー」が当たって、一気に勝負がつきました。
――リードジェンビジネスでしのぎを削る一方、11年に「ねとらぼ」というメディアを立ち上げています。PRの文句に「今気になる・人に話したい旬のネタをお届けするネットニュースのサイトです」とありますが、アイティメディアの特徴であるIT系のメディアとは明らかに異なります。どうして「ねとらぼ」をつくったのでしょうか。
大槻 08年に日本でiPhoneが発売されました。これ以後、パソコンからスマートフォン(スマホ)へと時代は大きく変わります。孫社長がiPhoneを手に、「これからはパソコンはいりません」と言い切ったのを見て、これは大変なことになる、と思いました。
というのも、アイティメディアはほぼパソコンに依存していたからです。スマホに適したメディアをつくらないと、会社の将来はない。いろいろ挑戦し、いっぱい失敗したなかで、生き残ったのが「ねとらぼ」です。
もともとはITmedia NEWS編集部がアルバイト的にやっていたもので、ストレート情報主体の硬いニュースではなく、切り口を工夫した軟らかいニュースが特徴です。「ねとらぼ」とはネットラボラトリーの略。ネットの「実験室」です。編集部が自由な発想で、スマホの読者に受けるモノを、実験的に配信する。編集部には、失敗を恐れずに思い切ってやってみろ、と言いました。
――もともとスマホ対策だったんですね。
大槻 はい。経営戦略としてはスマホ対策です。若い人を中心に爆発的に伸びていくであろう「スマート・アンド・ソーシャル」で勝負できる「拠点」があるということが大事なんです。
ただ、本音を言うと、僕自身、こういうメディアが好きなんですね。メディアとは、ある種の混沌から、新しいコンテンツが生まれてくるもので、そこが面白い。出版事業をやっていた時から、そう思っていました。幹部や社員の中には、リードジェンのような、株主にも分かりやすいモデルに特化したサイトにしたらどうかという意見もありますが、僕が社長をやっている間は、こういうメディアを捨てないよとみんなに言っているし、面白いメディアをつくりたいという社員が当社には多いんです。
――とはいえ、ニュースでお金を稼ぐのが難しい時代です。編集者や記者の人件費もバカにならない。かといって、編集部を縮小するとコンテンツの質にも影響が出る。悩ましいところです。
大槻 利益を生み出す仕組みをつくることの大切さを、僕は秘書をしていた頃から、孫社長にたたき込まれました。アイティメディアを始めた時も、編集者や記者たちと、利益を出すことの重要性をどう共有するかに心を砕きました。
正直言って、既存のメディア企業の人の中には、「メディアは利益を出さないといけないのですか?」と言う人が少なくないと感じています。メディアの仕事は、たとえば「権力監視」であって利潤追求ではないと。でも、僕は絶対そこは譲らない。メディアも堂々と利益を出さないといけないと思います。
――17年度には「ねとらぼ」が月間1億PVを突破。
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