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憲法理念から離れた象徴天皇 主権者の責任・自覚あいまいに

渡辺治 一橋大学名誉教授

はじめに 「平成流」礼賛の声

 2016年8月、退位を示唆した明仁天皇の「おことば」が発表されたあたりから、19年の明仁天皇の退位、代替わり儀式にかけて、マスメディアの報道や識者の論評で、「平成」の天皇を礼賛する言説があふれた。

 こうした、天皇を称賛する報道は、明仁天皇が精力的に行った、沖縄、広島、長崎、サイパン、パラオなどへの「慰霊の旅」や3・11はじめ災害の被災地訪問、さらに度々発せられる「おことば」に対する国民の好意的反応を踏まえたものであった。こうした天皇の活発な行動は、明仁天皇の時代に特に強まったこと、また、それら行動がいずれも明仁天皇自身の発意によるものと見られたことから、これら言説は一括りに「平成流」と称され、「平成流」という言葉がメディアにあふれかえった。

街頭の大画面で流されたビデオメッセージを見上げる人々=2016年8月8日、東京・新宿

 明仁天皇の言動に対するメディアや知識人らの礼賛には、実は、もう一つの要因も加わっていた。それは、天皇の言動が、当時政権を担っていた安倍晋三首相のそれと対立し、毎年8月15日に開かれる戦没者追悼式典における「おことば」をはじめとする明仁天皇の行動は、安倍政権への批判に違いないとみなされたことであった。天皇の言動に安倍批判を忖度し、天皇の行為に積極的に肩入れする言論人や憲法学者、さらには野党政治家さえ現れた。

 こうした「平成流」礼賛の合唱は、徳仁天皇の即位、新型コロナの蔓延などを機に終息を見たが、とはいえ、〝明仁天皇であればコロナ禍に国民の前に姿を見せ、「おことば」を発し訴えたはずだ〟と、徳仁天皇を叱咤激励する言説が現れた(注1)ことは、論者の中に「平成流」こそ象徴天皇制のお手本であるという意識が定着していることを示している。

 しかし、少し立ち止まって考えてほしい。マスコミが「平成流」と礼賛する天皇の行為―そのことごとくは、「象徴」制度を作った日本国憲法が禁止している、少なくとも明示的に授権していない行動なのである。しかも、それら行為を、政府の要請によってではなく、天皇の発意によって行うに至っては、憲法に明記された行為のみを、しかも「内閣の助言と承認」のもとにのみ行えと命じている憲法からのさらなる逸脱である、ということも考えに入れておかねばならない。

 つまり、「平成流」とは、憲法で「象徴」制が創設されてから75年、その歩みの中で、天皇制の現実がいかに憲法の構想から遠く離れてしまったか、その到達点を示していると言えよう。しかし筆者は、天皇の行動を違憲と断じて事足れりとは思わない。憲法から離反した天皇の行動が民主主義や自由な社会の理念に合っているなら憲法を変えるべきだからだ。

 では、憲法はいかなる目的で象徴制をつくり天皇の行為を厳しく制限したのだろうか。また、天皇の行動の憲法からの離反はどんな問題を社会や国民にもたらすのか。それらを検討しよう。

注1 たとえば、御厨貴『毎日新聞』2020年5月1日付。

なぜ天皇は「象徴」となったか?

 一体なぜ憲法は、天皇を「象徴」にし、天皇の行動を厳格に縛ったのであろうか?

 それは、政治の全権力を握った明治憲法の天皇制の下での戦前、戦時の悲惨な国民的経験を反省してのことだ。

 明治憲法は、遅れて近代化に踏み出した日本が欧米列強に追いつき肩を並べる強国となるため急速な産業化、軍備強化を議会や政党に邪魔されずに進められるよう、天皇に全ての政治権力を集中させた。とりわけ政府が警戒したのが、議会に進出する政党勢力に政治の実権が移ることであった。そのため、明治憲法は、宣戦講和、外交・条約締結、軍事、さらに緊急時に法律に代わる天皇の勅令を発する権限などを、議会の議を経ないで天皇が決められる「大権」として憲法に列記したのである。特に、軍の指揮・命令=「統帥」に関しては、天皇は、議会はおろか内閣の意も聞かずに軍部の「輔翼(ほよく)」の下、独裁することができた。また明治憲法は、国民の反対の声で政治が左右されないよう、言論の自由をはじめ市民的自由を厳しく制限した。この体制こそ、日本が侵略戦争を繰り返し最後には連合国との戦争に突入し敗色濃厚になってもズルズルと引き延ばし、日本人も含めアジアで2千万人もの命を奪った原因であった。

戦後60年の節目に行われた慰霊の旅=2005年6月、サイパン島

 敗戦後日本を占領した占領権力は、何よりも日本軍国主義が復活しない体制を作ることを目指した。そのために、新しい憲法には、政府の戦争政策に反対する運動や言論の自由の保障、9条による軍備の放棄などが盛り込まれたが、天皇制の改革はその主たる柱であった。日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)のマッカーサーは天皇に対する日本国民の強い帰依を目の当たりにし、それを残すと決断したが、明治憲法の天皇制を残すことなどは論外であった。

 日本国憲法は、「天皇」という制度は残したが、明治憲法下の天皇制を根本的に改革した。第一に、天皇を「統治権総攬(そうらん)者」「元首」から、「象徴」に変えた。憲法1条はこう謳(うた)っている。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と。

 象徴とは、「平和」のような抽象的な理念を目に見える形で表象する鳩のような具体物を指すが、肝心なのは、「象徴」とは、「元首」とは違って、国の政治を動かしたり国民統合に力を発揮したりという能動的行為を一切しない、いわば鏡のような、あくまで受動的な存在だという点である。憲法に「国民統合の象徴」とあるのは、天皇は、日本国民があるまとまりをもって「統合」されていることを象徴しているという意味で、天皇が国民統合に力を発揮できるという意味ではない。

 第二に、当然その前提となるが、国の政治を動かす主権者は、天皇ではなく国民であることを明記した(1条)。

 第三に、その延長線上で、天皇は一切の政治権力を剥奪された。憲法4条に、天皇は「国政に関する権能を有しない」と明記した。

 天皇は、ただ憲法に列記された13の儀礼的行為「国事に関する行為のみ」(4条)を、しかも天皇単独ではできず「内閣の助言と承認」のもとでのみ行う(3条)ことができる、と二重の制限を課せられたのである。

 このように天皇が厳しく政治権力や権威的行動を禁止されたのは、明治憲法下の天皇がその権力と権威によって日本を破滅に追いやった教訓からであった。

 自民党政権は、天皇の権威を利用

 だが、保守政権は、このような憲法、象徴天皇制を到底受け入れられなかった。危機の時に天皇が何もできない体制の下では、安定した政治を行う自信がなかったからだ。

 そこで、保守政権は、当初、明治憲法下の天皇制への復古を目指した。保守政党は、講和後いっせいに日本国憲法の全面改正を主張した。改憲案では、さすがに、天皇の統帥大権を復活させることはできないと考えたが、天皇を「元首」にし、緊急命令など、明治憲法下の天皇が持っていた便利な権限の復活を図ったのである。しかし、こうした保守政権の企図は、戦後民主主義を体験した国民には受け入れられなかった。

 そこで、1960年代に入ると自民党政権は、復古主義を断念、経済成長を前面に立てた政治に転換した。それに伴って、保守政権の天皇政策も、保守政治の安定のために天皇を利用する方策に変わった(注2)

 〝象徴天皇制こそ天皇制の伝統だ〟という言説や〝昭和天皇は昔から平和を望んできた、軍部の反対を押し切って天皇がポツダム宣言受諾を決めてくれたおかげで戦後日本の繁栄がある〟という神話が流布されるようになった。国民体育大会や全国植樹祭で天皇が地方にやってくると、道路、施設をはじめインフラへの補助金が地元に散布されただけでなく、天皇を誘致した知事や政治家の権威づけにもなったから、自民党政治家はこぞって天皇を地元に招くのに努力した。

 生存者叙勲も復活し、天皇の仁慈がふりまかれるとともに、自民党政治家は勲章の口利きで、選挙地盤の強化を図った。

 こうして、自民党政権のもと、行幸や外国訪問が著増した。これら行為は憲法が「象徴」の行為として認めた「国事行為」ではなかったから、当然違憲の疑いが指摘された。特にこの時代は、憲法学者もメディアも、天皇制の復活を警戒していたため、天皇の行動には厳しい批判が展開された。

 そこで、一部の憲法学者や政府はそうした行為を「公的行為」として正当化を図った。公的行為とは国事行為ではないが象徴という地位にふさわしい行為であり、憲法上、容認できるというのである。しかも、政府は、「公的行為」は「国事行為」ではないから「内閣の助言と承認」というような厳格な縛りはいらないとした。憲法は明文で容認している「国事行為」でさえ、「内閣の助言と承認」を義務づけているのだからいわんや憲法が禁止している行為の場合には、「内閣の助言と承認」以上の、たとえば国会の超党派議員による承認のような条件を設けるべきであるのに逆に緩めたのである。

 そうは言っても政府とて限界を設けなければならない。そこで政府は「公的行為」には三つの限界があるとした(注3)。一つは、憲法が天皇の政治的行為を禁止しているから、「公的行為」も政治的な意味を持ったり政治的影響を与えたりするようなものはダメ。二つ目は、あくまで内閣が責任を取る行為であること。三つ目は、「象徴天皇の性格に反したもの」―国民の中で意見が対立しているようなものはダメ、という限界である。

 しかし、自民党政治が昭和天皇を活用するようになると、天皇の行為には全て合憲の祝福が与えられ、象徴天皇の憲法からの乖離(かいり)が始まったのである。


2 詳しくは、渡辺治『戦後政治史の中の天皇制』青木書店、1990年。
3 角田礼次郎、第75回国会1975年3月18日、衆議院内閣委員会7号、21頁。

「平成」で加速した憲法からの乖離

 昭和天皇は最後まで「象徴」を受け入れられなかったが、昭和天皇の死去に伴い即位した明仁天皇は、昭和天皇と違い積極的に憲法擁護を謳って登場した。「即位後朝見の儀」での「おことば」で、明仁天皇は、「みなさんとともに日本国憲法を守り、これにしたがって責務を果たすことを誓い」と述べ右翼の顰蹙(ひんしゅく)を買った。ところが、この明仁天皇のもとで、憲法が求めた象徴天皇像からの乖離が一層進んだのである。憲法からの乖離は二つの点で進んだ。

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