生産的な憲法報道の文化を
2022年05月03日
憲法問題を考える上で、メディアの果たす役割はとてつもなく大きい。その理由は、憲法について、国民の側にはほとんど情報がないのが通常であり、メディアの伝える情報に大きく判断を左右されるからである。国民が憲法についてあまり情報を有さないのは、憲法がもっぱら国家権力に関する事柄を扱っており、私たちの日常生活からはかけ離れているからである。例えば、公文書改ざんや統計不正と、野菜の価格が上昇するのとで、どちらが国民にとってより深刻な事態かと問われれば、多くの国民は後者と答えることだろう。もちろん、公文書や統計データの改ざんが民主主義を脅かすことは理解しているが、それよりも家計を逼迫(ひっぱく)しかねない野菜の価格高騰の方がよほど切実な問題である。戦後間もない頃に「憲法より飯を」と叫ばれたが、その価値観はいつの時代も変わらないのである。
しかし他方で、私たちの日常生活が、憲法上の様々な仕組みによって支えられていることも見逃してはならない。もし公文書改ざんや統計不正が常態化して、国家権力が時の権力者によって私物化されるようになれば、割を食うのは国民である。そのときの割の食い方は、飯を食えないよりも深刻な可能性がある。私たちはいま立憲主義や民主主義が当たり前の世の中を生きているからその大切さを気に留めないが、それが失われた先に待つのは日常生活の喪失である。公文書や統計データの改ざんくらいで何を大袈裟にと思われるかもしれないが、憲法上の価値が毀損(きそん)される度に国民が声を上げる「文化」を築いておかなければ、いざというときには立ち上がることさえできないだろう。
ところが、憲法問題の報道には、他の報道とは異なる特有の難しさがある。それは
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