西山太吉さんインタビュー 復帰50年 沖縄報道を問う
2022年05月14日
半世紀前の1972年5月15日、それまで米軍の施政権下にあった沖縄は祖国・日本に復帰を果たした。その約1カ月前、一人の新聞記者が逮捕された。沖縄返還をめぐる外務省の機密電信文を女性事務官から入手したことが、「秘密をもらすようそそのかす罪」(国家公務員法違反)に問われた。電信文は、アメリカが払うとされた米軍用地の原状回復補償費400万ドルを日本が肩代わりすることをうかがわせるものだった。逮捕について、当初は国民の「知る権利」を阻むものだと反発が広がったが、記者が「情を通じ(て)」(起訴状)事務官から入手したことがわかると、風向きが変わった。記者と事務官はいずれも有罪となった。その後、密約を裏づける米公文書が相次いで見つかり、当時の外務省高官が証言し、司法の場でも密約の存在は認定された。にもかかわらず、国はいまだに密約自体を認めていない。事件後に社を去った元毎日新聞記者の西山太吉さんがこのほど、インタビューに応じた。「国はまだ密約を否定している」「情報公開はメディアの生命線」――。密約に翻弄された半世紀。国民の知る権利に背を向ける「国家の噓」への怒りは、90歳になった今も消えない。
――沖縄返還とはどのようなものだったのでしょうか。
西山 まず、原点から話をしよう。沖縄返還は戦後の最大のテーマだった。1960年代前半、どのような形で実現するかを政府は検討するわけよ。ベトナム戦争が始まる少し前だったか、大平(正芳・外相)は私に言ったよ、「おい、西山なあ、(米側の希望は)自由使用だからな」って。ライシャワー(駐日米大使)が(懇意にしていた)大平に言ったんよ。
自由使用っていうのは、アメリカが自由に、アメリカの判断のもとに行動できるっちゅうことだから、在日米軍の国際行動について日本政府は異議を申し立てできない。主権国家ということからみれば、非常に大きな問題なんですよ。
――主権国家としては簡単に認めるわけにはいかない、と。
西山 自由使用となると、国内では動乱の原因になるし、日本の国の変容につながるから、懸念しとったんやな。それと、池田(勇人・首相)はケネディ(米大統領)から「いまは無理だ」って言われたから、ただちに(返還交渉を)開始することは難しいってなった。
そこで、佐藤(栄作)は、(政敵である)池田が消極的な「沖縄返還」をスローガンに持ち出したんや。そして65年、沖縄を訪れて、「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、我が国の『戦後』は終わっていない」って名ぜりふを放った。そこから始まったっちゃ。
――アメリカでも同じ頃、駐日米大使を務めたライシャワーが「沖縄返還は時間の問題」との認識を示しています。
西山 米国防総省は猛反対や。沖縄は、アメリカの世界戦略にとって極東におけるキーストーン(要石)だ。自由自在に使える基地でなくちゃいけないって反対したんだ。だけど、日本の国内事情からみて、それ一辺倒ではだめだ、というのが国務省の考えで。
――68年、沖縄では「本土復帰」を掲げる屋良朝苗(やら・ちょうびょう)が琉球政府のトップに選ばれ、嘉手納基地では米爆撃機B52の爆発事故がありました。
西山 それを受けてね、アメリカでは国防総省のように軍事的戦略論だけではだめだ、日本側の要望を聞いて沖縄を復帰させなくちゃいけないだろうと。ただし、国務省としても、国防総省の(基地の自由使用という)要求を前提にやってきたんですよ。
――日米安保条約では、米軍が直接出撃する際は日本側との「事前協議」に諮るとされていました。返還後は、米軍が自由に基地を使えるように、と求めたんですね。
西山 緊急時の朝鮮半島への出撃については、すでに密約を結んでおった。さらに、ベトナムも含めた極東をにらんだアメリカには、自由使用が不可欠だった。メモランダム13号を読んでみい。あのとき、返還に同意する条件として「軍事基地の通常兵器による最大限の自由使用が認められるようにする」と出てるよ。
――メモランダム13号とは、米国家安全保障会議が69年5月28日に作成した「米軍の対日政策と沖縄返還戦略」についての文書ですね。
西山 そう、(基地の)自由使用と、もうひとつはカネよ。米軍基地にかかる費用を最大限、日本に負担させて、これまで沖縄に投じた分を回収するとも書いてある。沖縄返還で、アメリカは
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