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地元紙に映る在京メディアの風景 互いに補完し合う関係を望む

復帰50年 沖縄報道を問う

与那嶺 一枝 沖縄タイムス編集局長

 沖縄の日本復帰前を知る最後世代だと勝手に自負している。理由はドルとセントの記憶が鮮明という単純な話だ。

 当時、1セントであめ玉が3個、5セントでは菓子パンか瓶入りのコーラが買えた。お年玉はほとんどがコイン。1ドル紙幣でもらえることはめったになかった。ドルから円への通貨切り替え後、1円玉を握りしめて近所の店に行ったら、あめ玉が買えなかった衝撃は忘れられない。1円では何も買えず、1セントは1円の10倍の価値があることを知った。7歳で実感した米国の力だ。

 私の知る限り、歳が一つ若いというだけでセントやドルの記憶はない。学生時代に気づき、復帰の話題が出ると後輩たちに尋ねてきたが、記憶している1966年生まれに出会ったことはまだない。

拡大復帰と同時の通貨交換。使い慣れた米ドル札から目新しい日本円へ=1972年5月15日、沖縄県那覇市の琉球銀行松尾支店

 生まれ育った地域は45年の沖縄戦で激戦地だった。きれいな石ころを大切にする小さな子どものように、当時の私の宝物の一つは、道ばたで拾った米軍の薬莢(やっきょう)だった。既に70年代初頭には薬莢を見つけるのは難しくなっていた。机の引き出しに大切に隠し入れては、勉強の合間に鈍く光る先のとがった〝おもちゃ〟を眺めて息抜きをしていた。

 紛争地域の子どもたちが手投げ弾などに触れてしまい事故に遭う悲惨さと地続きだ。実際に戦後の沖縄では不発弾による事故が多発した。もう10年早く生まれていたら、私も触れていたかもしれない。

 勤める沖縄タイムスで、かろうじて復帰前の記憶があるだろう記者は10人余しかいない。昨今、ジャーナリズムの世界でもよく言われる「自分ごと」としての日本復帰問題は、沖縄の地にあっても記者が過去から学び、追体験をするような努力を続けなければ難しい歳月が流れている。

記者である前に一県民

 復帰50年を前に、今年に入ってから県内外から当時の写真の問い合わせが増えた。残念ながら要望に応えられるような印象的な写真が見当たらないことも少なくない。

 もちろん、復帰前の抗議集会や復帰記念式典、式典会場隣の公園で繰り広げられた土砂降りの雨の中の復帰反対集会の写真はある。が、多彩な場面を写した写真は少ない。なぜなら、現場記者の多くが反対集会に参加していたからだ。記者たちは、記者である前に一県民であった。

拡大降りしきる雨の中、「米軍基地撤去」「安保廃棄」などと訴えてデモをする人たち=1972年5月15日、那覇市・国際通り

 たとえば、佐藤栄作首相とニクソン米大統領の会談による沖縄復帰(返還)交渉が大詰めを迎えていた1969年11月。会談直前の同月13日、米軍基地の負担軽減が見通せない復帰は日米軍事同盟の再編強化だとして労働組合などが統一ストライキを打った。学校は休校し、約20万人が参加する大規模な抗議行動となった。ストには記者を含む沖縄タイムスの組合員全員が参加したといわれている。

 このため翌14日付朝刊は、当時の基本建てページの半分となる6ページで発行した。管理職だけで取材、編集したからだ。


 日本復帰が決まる直前の沖縄の動きは重要なニュース。取材のポイントは多々あるはずで、ページ数を増やすことはあっても、減らすという対応は、現在では考えられない。

 復帰前後の先輩記者たちの振る舞いは社内で語り継がれてきた。先輩たちは懐かしい昔話を話すような自嘲的な語りではあったが、当時の空気を知らない後輩たちに伝えたい思いを端々ににじませていた。

 取材を放棄した形で反対集会に参加する記者たちの行動について、今なら批判を浴びるかもしれない。60年代、70年代の時代状況だと一言で片付けることもできるが、こうした先輩記者たちの熱い思いを、今の私たちはどう捉えればよいのだろうか。

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筆者

与那嶺 一枝

与那嶺 一枝(よなみね・かずえ) 沖縄タイムス編集局長

1965年、沖縄県生まれ。琉球大学卒。90年沖縄タイムス社入社。社会部や政経部などで勤務。社会部付部長、編集局次長を経て、2018年7月から現職。ホームレスの生き方をみつめた連載「生きるの譜」で10年、貧困ジャーナリズム大賞受賞。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです