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行き着いた戦争報道は「極化」 毀損した信頼回復に検証必要

戦争とメディア

武田徹 ジャーナリスト、専修大学教授

 ウクライナ侵攻を機に戦争報道について考える。そこにひとつの巡り合わせを感じる。

 2014年にキーウ(キエフ)のマイダン(独立広場)に集まったデモ隊が親ロシア派のヤヌコビッチ大統領を追放。その数日後にはロシアがクリミア半島の併合を一方的に宣言した。今回のウクライナ侵攻はこうした出来事の延長上に位置づけられるが、同じクリミア半島で19世紀に起きた戦争こそ、戦争報道史のひとつの起点となるものなのだ。

 フィリップ・ナイトリー『戦争報道の内幕』は、19世紀のクリミア戦争を取材していたウィリアム・ハワード・ラッセルを「民間の記者を使って本国の市民たちに戦争報道を行わせた」戦争報道記者の始まりとして紹介した。そのラッセルが自分を「不運な一族の哀れな生みの親」と称していたことは留意に値する。なぜ戦争報道記者は「不運な一族」なのか。

真実が犠牲になる構図

 西側への勢力拡大を望むロシア帝国を阻止するために英国政府が宣戦布告したことを国民は熱狂的に支持し、戦況を知らせるニュースを渇望した。『ザ・タイムズ』の経営陣はその需要の高まりに応えるためには現地でレポーターを雇用したり、兵士自身に戦況を報告させたりする方法ではなく、自社特派員による報道が必要だと考え、ラッセルを派遣した。

 その従軍取材は困難を極めた。銃弾飛び交う戦場では通常の取材のように記者が自由に飛び回ることはできない。従軍取材が余儀なくされるが、食糧は欠乏し、ラッセルはけがもしたし、疲労困憊(こんぱい)を極めている。そうした悲惨な取材環境を意識してラッセルは戦争報道に携わる者の不運を指摘したが、ナイトリーの書きぶりにはまた別の含意がある。

 ナイトリーの著書の原題は「The First Casualty」だ。本誌読者には繰り返すまでもないだろうが、それは米国が第1次世界大戦に参戦したときにハイラム・ジョンソン上院議員が述べたものとも、古代ギリシャの大詩人アイスキュロスの言葉とも言われる「The first casualty when war comes is truth(戦争が起これば最初の犠牲者は真実である)」に依(よ)っている。

 まず軍事作戦に関する情報は機密性が特に高く、真実の多くは守秘の壁の向こう側にある。結果的に戦争報道は取材が困難となるし、記者が知り得たことであっても政府や軍が国益を理由にその公開に規制をかけることも多い。ラッセルの場合も、何かにつけて取材を妨害されているし、軍の検閲も受けている。

 とはいえ軍や政府は情報が流出しないように気を使うが、一方で自国民の戦意を高揚させ、敵の戦意を消滅させる情報が広く伝わることは歓迎する。真実を伝えることではそうした目的がかなえられない場合、虚偽の情報が提供されることもある。こうして真実が犠牲になりがちな戦争報道の構図をいち早く体現する「不運な」記者の最初の例となったからこそナイトリーは自分の戦争報道論をラッセルから書き始めたのだ。

ベトナム戦争での南ベトナム政府軍とアメリカ軍の共同部隊=1965年2月

 ナイトリーの書はベトナム戦争までの時期をカバーしているが、戦争報道記者の受難は一貫して続いている。『ニューヨーク・タイムズ』特派員だったデビッド・ハルバースタムもベトコンの勇敢な戦いぶりと南ベトナム兵の臆病な様子を対照的に書いたことで南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権での大統領顧問を務めていたゴ・ディン・ニューの夫人に嫌われ、ケネディ政権も『ニューヨーク・タイムズ』の経営陣に特派員の交代を提案していた。この時は経営陣が彼を守ったため辛うじて首がつながったが、このように戦争報道は常に政治的に翻弄(ほんろう)される宿命にあった。

テト攻勢を機に変わった世論

 しかし、やがてジャーナリズムが一矢を報いる。1971年6月に『ニューヨーク・タイムズ』などが

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