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SNS化する新たな戦争 フェイクニュースをめぐる攻防

戦争とメディア

平和博 桜美林大学教授(ジャーナリズム)

戦場のインフルエンサー

 みんな、今、私はベッドにいる。眠れないから動画を撮っている。ここはウクライナのキーウ。街中が大騒ぎになっている。どこか遠くで大爆発があって、建物全体が揺れた。これは何か重大なことの始まりかもしれない。

 2月24日午前6時8分。動画共有サービス「ティックトック」に公開した48秒の投稿動画で、クリスティーナ・コルバンさんは不安げな表情で状況を伝える。

 ロシアのプーチン大統領が、テレビでウクライナへの「特別軍事作戦」開始を表明してから1時間以上が過ぎていた。

 この投稿動画は85万件超の「いいね」、2万9000件のコメント、1万6000件の共有をされている。

 コルバンさんはティックトックで約63万人のフォロワーを持つインフルエンサー(著名人)だ。前日までは、華やかなファッションと音楽で、暗号資産の財テクやフィットネスの動画を連日のように投稿してきた。

 だがこの日の朝を境に、スマートフォンを持った「戦場インフルエンサー」となる。同日午後3時、コルバンさんは自動車のフロントガラスの先を横切るミサイルの動画を投稿。以後、スーパーでの買い物の様子など、戦時下の日常やウクライナへの支援を訴える動画を投稿し続け、それぞれ数万件の「いいね」を集めている。

「ティックトック戦争」

 ウクライナでは旅行ブロガー、ファッションリーダーなど様々なインフルエンサーが、2月24日以降、「戦場インフルエンサー」として侵攻の現状をソーシャルメディアから世界に発信している。

 歴史上初の本格的な「戦場カメラマン」は英国の写真家、ロジャー・フェントンとされる。1855年、カメラを手にフェントンが向かったのは、英仏などの連合軍とロシアが対峙したクリミア戦争の激戦地、セバストポリだった。人影のない谷間に無数の砲弾だけが散乱する写真「死の陰の谷」は、この戦争を歴史に刻む。

ロシアによる侵攻で犠牲になったウクライナ兵が眠るリチャキフ墓地=2022年5月8日、ウクライナ西部リビウ、坂本進撮影

 167年後のウクライナの地から、戦争の動画や写真を記録して世界に発信し続けるのは、スマートフォンとソーシャルメディアを手にした無数の市民だ。米誌ニューヨーカーは、ウクライナ侵攻を「ティックトック戦争」と呼んだ。

 米ホワイトハウスは3月10日、ティックトックのインフルエンサー30人をオンラインで招待し、ウクライナ侵攻への米国の取り組みと現状について、報道官らがブリーフィング(状況説明)を実施した。

 一方、米オンラインメディア「バイス」の調査によると、ロシアではティックトックのインフルエンサーたちに報酬を払い、親ロシアの投稿を依頼する組織的なキャンペーンがあったという。

 ウクライナ侵攻は、情報戦、サイバー攻撃、武力攻撃を連携させた「ハイブリッド戦争」の、最新で最大規模の事例だ。特に注目されているのが、ソーシャルメディアを舞台とした情報戦だ。背景には、社会生活に欠かせないインフラとして、世界の隅々にまで浸透したソーシャルメディアの影響力と、メディア環境の変化がある。

 ソーシャルメディアが非常時のツールとして注目を集めたのは、2010年から11年にかけての中東の民主化運動「アラブの春」だった。急速に広まり始めていたフェイスブックやツイッターは、民主化運動の動員のカギとなった。

 さらに14年、ウクライナのユーロマイダン革命でも、親ロシアのヤヌコビッチ政権崩壊にいたる動きを、ソーシャルメディアが後押しした。だが一方では、フェイクニュース拡散の舞台にもなった。ロシアによるクリミア併合へと続く情勢緊迫の中で、「ウクライナ兵士が児童に残虐行為」などのフェイクニュースが、ロシアメディアやソーシャルメディアを通じて拡散していった。ウクライナをめぐるフェイクニュース氾濫はその後も続き、今回の侵攻にいたる。

 「アラブの春」が起きた10年末のフェイスブックの月間ユーザー数は世界で6億人。ヤヌコビッチ政権崩壊後の14年3月末で12億8000万人。それが今年3月末には29億4000万人にまで拡大している。これは世界人口の3分の1以上で、国家の規模もはるかに上回る。

 今回の侵攻で注目されたティックトックは、16年に始まったダンスや歌、ファッションなどを披露する若者中心の動画共有サービスだ。昨夏には世界の月間ユーザー数が10億人を超えた。

 ユーザーの規模だけではない。20年からの新型コロナの世界的大流行により、社会生活はオンラインへと大きくシフトした。これにより、ソーシャルメディアの存在感はさらに拡大した。そんなメディア空間の激変が、戦争のあり方も変えた。

「恐怖」と「共感」の情報戦

 ソーシャルメディアを舞台とした情報戦で、ウクライナとロシアは対照的なアプローチを見せる。

 ソーシャルメディアは、感情を伝播させるメディアと言われる。ロシアが展開するのは、「ウクライナによるロシア系住民への迫害」という「恐怖」や「怒り」を喚起する情報戦だ。これに対して、軍事力では劣勢に立つウクライナは、「共感」を軸にしたソーシャルメディアのコミュニケーションを展開した。

マリウポリの製鉄所「アゾフスターリ」とみられる場所で、バスで助け出される親子。アゾフ連隊が撮影した動画をウクライナの対ロシア交渉担当者、デビッド・アラカミア氏がSNSに投稿した=同氏が投稿した動画から

 ロシアによる侵攻開始直後、「(ウクライナの)ゼレンスキー大統領が慌ててキエフを去った」とのフェイクニュースがロシアから拡散される。これに対して

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