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ウクライナ侵攻が変えた世界と日本 国際政治学者・菅英輝さんに聞く(下)

日本外交の進路

菅 英輝 大阪大学招聘教授・九州大学名誉教授

 2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、ヨーロッパだけでなくアジア・太平洋地域をも揺さぶっている。アメリカは台湾危機に重ねて、蔡英文政権への軍事支援を急ぎはじめた。5月下旬に東京で開かれた日米豪インド4カ国(クアッド)の首脳会合は、中国への対抗を念頭に連携強化を打ち出した。日米首脳会談では、岸田文雄首相は日本の防衛費の「相当な増額」をバイデン大統領に約束、日米安保はいっそう軍事色を強めている。このような対応は、東アジアにおける緊張緩和に結びつくのだろうか。冷戦全般をテーマにした先月号に引き続いて、今月号では日米関係と日本外交に焦点を絞り、大阪大学招聘教授の菅英輝さんに聞いた。歴史の文脈を踏まえたとき、日米安保の深層からみえてくるものは何か。

――今回は、日本の視点で冷戦を振り返りたいと思います。日本にとって、冷戦とは何だったのでしょうか。

 ひとことで申せば、日本は冷戦の「受益者」でした。第2次世界大戦が終わった1945年の時点に戻ってみましょう。連合国軍の占領は実質的にアメリカ軍による単独占領で、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からの指令・勧告にもとづいて日本政府が政治を行いました。行政機構など戦前からの体制を活用した間接統治です。同じ敗戦国でも、首都ベルリンが陥落するまで戦ったドイツは、米英仏ソの4カ国に分割され、軍政下に置かれました。冷戦が激化するなか、1949年には東西ドイツという二つの分断国家として再出発します。

 日本の植民地だった朝鮮半島には、さらに過酷な運命が待っていました。ルーズベルト、チャーチル、蔣介石の3首脳が顔を合わせたカイロ会談(1943年)では朝鮮の独立が約束されていたのですが、戦争終結直後に北緯38度線を境に北半分をソ連、南半分はアメリカが占領し軍政下におきました。こちらも米ソ冷戦の激化のため、分断国家となります。

 さらに、北朝鮮が武力統一を目指して韓国に侵攻し、朝鮮戦争(1950~53年)が始まりました。アメリカ軍が「国連軍」として介入、中国も義勇軍が北朝鮮側に参戦した結果、冷戦はアジアで熱戦と化しました。休戦協定は結ばれましたが、朝鮮半島は全土が荒廃し、分断は固定化され、その状況が今日まで続いているわけです。こうして韓国は冷戦の最前線となりました。しかし、アメリカがほんとうに重視したのは、その最前線から一歩引いたところに位置した日本でした。

菅 英輝(大阪大学招聘教授・九州大学名誉教授)

――日本はどう位置づけられたのですか。

 日本は、アジアにおけるアメリカの冷戦戦略の「かなめ石」となりました。アメリカによる初期の日本占領政策の目標は、「非軍事化と民主化」です。日本が二度と世界平和の脅威にならないようにすることが目的だった。しかし、まもなく始まった米ソ冷戦が日本占領の性格を変えてしまいます。いわゆる「逆コース」ですね。「経済復興と再軍備」が重視されます。日本の政治と経済を安定させ、一日も早く西側陣営に取り込むことがアメリカの狙いとなりました。

 そういうなかで起きた朝鮮戦争は、経済復興の起爆剤となりました。この戦争は日本に莫大な特需をもたらすことになります。のちのベトナム戦争でも、特需がありました。戦後日本は冷戦の戦闘正面に立つことなく、経済的利益を得ていたのです。

 しかし、こうした日本の再出発には負の側面もありました。戦後日本は日米関係をよくすることに力を傾注しましたが、その反面、植民地にしたり侵略したりしたアジア諸国との歴史和解は進まなかった。和解が遅れたことは、日本とアジア諸国との信頼関係の構築にもマイナスに働いたのです。

セットだった憲法1条と9条

――すこし詳しく解説していただけますか。

 アメリカは日本占領の初期には、民主化政策の一環として、政界、財界、官界から言論機関に至るまで、戦争中の責任を問う公職追放を行いました。しかし、先ほど述べた「逆コース」に伴って、この公職追放の解除が始まりました。日本が独立を回復すると、戦争責任を問われた有力者たちが、次々に復権します。開戦時の東条内閣の閣僚だった岸信介が典型ですね。岸は数年を待たずして自民党総裁、首相に就任します。復活した政治家たちは、憲法改正を主張し、再軍備を積極的に推進し、戦争指導者を裁いた東京裁判をも否定しました。この右派の流れは、自民党内に脈々と続きます。岸は日米安保強化路線ですから、米国も歓迎した。それも冷戦が原因です。「反共」でありさえすれば、アメリカは政治家の「過去」は問わなかった。こうして、日本では「戦前」と「戦後」が明確に切れなくなってしまった。それが負の遺産となって現在の日本に引き継がれています。

日本国憲法の原本

――対米関係を最優先する体制は、どのように形作られたのでしょうか。

 まず押さえるべきことは、日本国憲法第1条の象徴天皇制の規定と憲法9条の戦争放棄の規定は、セットで成立したということです。日米安保条約の締結を余儀なくされたことにみられるように、両者がセットで成立したこと自体、大きな矛盾を戦後体制に持ち込むことになりました。
占領下でGHQがまず行ったのは、日本の戦争指導者の逮捕です。東条英機元首相ら28人がA級戦犯容疑で起訴され、東京裁判が始まりました。日本内外には、天皇の戦争責任を問うべきだという声がありました。しかし、アメリカは、天皇制を廃止したら政治が混乱し、占領が難しくなると思った。それよりも、天皇制を占領統治に利用するほうが得策だったのです。そういうなかで日本国憲法制定の作業が始まりました。

 日本側が当初つくった草案があまりにも復古的だったため、GHQはみずから英文の改正草案をつくり、日本政府に提示しました。この草案に、非武装条項が含まれていました。首相吉田茂をはじめ当時の保守支配者層は、非武装は国家主権を制約するものだとして、強く反発しました。しかし、GHQは、彼らを次のような論理で説得したのです。

 連合国の間には、依然として昭和天皇を戦犯として裁くべきだという声が根強い。そういう批判をかわし、天皇制を守るには、非武装条項(9条)を含む民主的憲法が不可欠なのだ。またこの条項をのむことで、当時「反動」と思われていた吉田首相ら保守政治家の権力維持も可能になるだろう――と。

 こうした経緯はアメリカ側の資料に残されています。言い換えれば、当時の天皇側近や日本の保守支配者層は、天皇の地位と天皇制を守るために、日本の国家としての体裁(国家主権)を犠牲にしてでも、憲法9条を受け入れたわけです。日米の思惑が一致した「日米合作」(歴史学者の中村政則の指摘)と言ってよいでしょう。

日本はアメリカの「コラボレーター」

――日本の保守政権が対米交渉で十分に自己主張ができないのは、ここに一因があるかもしれませんね。日本はアメリカの「属国」だという批判もあります。

 「属国」という表現は、日本の対米従属の側面を強調しすぎていると思います。私自身は、戦後の日米関係は、「コラボレーター(協力者)」という言葉でよりよく説明できるのではないかと考えています。

日米共同統合演習に参加する海上自衛隊の護衛隊群司令(右)と米海軍の大佐=2010年12月、沖縄東方の海域、代表撮影

――「コラボレーター」というのは、初めて聞く用語です。

 もともと、イギリス帝国と植民地との関係を説明するために使われた言葉です。イギリス帝国がインドやアフリカなどの植民地支配を維持するためには、単に軍事力だけでは不十分でした。イギリス人に代わって日々の実務をこなしてくれる植民地のエリートの協力が必要で、彼らの支持が失われると植民地を維持することは困難になる。植民地エリートは、帝国支配を支える「コラボレーター」というわけです。

――似たメカニズムが、冷戦期のアメリカの政策にもあるということですか。

 冷戦時代の国際秩序は、米ソを頂点とする階層化した秩序でした。確かに戦後は国家主権の相互尊重という規範が強まり、かつてのような領土支配を伴う帝国は姿を消していきました。しかし、米ソの各陣営内にも階層、上下の秩序がありました。実は帝国主義の秩序によく似ている。
戦後のアメリカは、国家の形式的主権は尊重しながらも、「暗黙の合意」にもとづき、他国の対外政策を実質的にコントロールしようとする外交を展開するようになった、と私は考えています。相手国内に親米政権(コラボレーター)を育成し、その国の外交をコントロールする対外政策を展開したのです。いちいちアメリカが指図しなくても、アメリカの意を忖度して政策を行う、そんな政権のことです。

 ただし、領土を支配しているわけではありませんから、影響の行使はより間接的です。たとえば、国家の安全や経済援助を提供する代わりに、相手国の対外政策を一定程度コントロールしようとする。その反面、アメリカが設定した規範・行動のルールの枠内であれば、相手国は自己の利益を追求する余地は相当あるわけです。

 戦後の日米関係は、ゆるやかな支配・従属の関係にあるものの、日本にも自国の国益を追求する余地はかなり残されていました。繊維、農産物、自動車などをめぐって激しく対立した貿易摩擦はその例ですね。それは、アメリカが、国家主権の相互尊重という規範に形式的に配慮しながら、対外政策を展開したことと密接な関係があります。

経済成長を経て安保・講和体制が定着

――そのような日米関係がずっと続いたのはなぜなのでしょうか。

首席全権として講和条約調印式で署名する吉田茂首相(左)= 1951年9月8日、サンフランシスコ

 まず戦後体制の形を確認しましょう。1951年9月にサンフランシスコで開かれた講和会議で日本との平和条約が結ばれ、同日他の場所で安保条約(旧安保条約)が調印されました。ソ連など共産圏の国は講和会議には出席したのですが、平和条約に調印しませんでした。日本の戦争で最も重要な交戦国である中国については、中華人民共和国(北京)と中華民国(台北)のどちらを招くかが問題になり、どちらも招かれませんでした。日本はこのとき西側諸国とのみの講和によって独立を回復したのです。

 同時に、日本は憲法9条の非武装規定を担保するために、9条とは相いれない日米安保条約を締結し、基地などの施設提供の見返りにアメリカに安全保障を委ねたのです。

 アメリカが恐れたのは、独立回復後の日本が社会主義陣営に属したり、中立政策をとったりすることでした。対ソ戦略の「かなめ石」である日本の維持が至上命令でした。アメリカにとっては、日米安保は日本を守るだけでなく、日本を支配するメカニズムでもありました。旧安保条約には「内乱条項」があり、日本国内で大規模な反政府デモがおこり、警察力でそれが押さえられない場合には、在日米軍の出動が認められていました。1960年の安保改定で削られましたが、こういう条項があったこと自体、アメリカが日本における親米政権確保を重視していた証しでしょう。

――それほどまで譲歩して日本が「コラボレーター」の役割を受け入れたのはなぜでしょうか。

 憲法9条を中核とする憲法体制と安保・講和両条約が戦後体制の車の両輪ですが、この後者の安保・講和体制のおかげでソ連と共産主義から天皇制を守ることができた、というのが戦後保守の大前提ではないでしょうか。

――では国民のほうは、安保・講和体制をどう受け止めたのでしょうか。

 国民は、講和条約は歓迎しましたが、日米安保条約体制が国民に広く受容されるのは、実は1970年代に入ってからです。安保条約を結んだことで、独立回復後も米軍基地が日本各地に残り、占領の継続ではないかと批判された。当時は、戦争体験を踏まえた平和主義も根強かった。国民の日米安保観が変化し始めるのは高度成長の時代です。世論調査をみても、1970年あたりを境に、日米安保に「賛成」の声が「反対」を上回るようになります。冷戦下の日米協力は日本に繁栄をもたらしている、という意識が国民に浸透しはじめたからでしょう。

 また、国際環境も日本にとって好転しました。1972年にニクソン大統領が訪中し、米中和解が実現します。同じ年に、日中国交正常化も成りました。米中関係、日中関係は劇的に好転し、アジアにおけるデタント(緊張緩和)が進むのです。ベトナム戦争の終結は、沖縄の米軍基地を介して日本が戦争に巻き込まれるとの懸念を和らげ、この間沖縄返還が実現したことにより、国民の安保反対感情は弱まりました。

冷戦終結後に強化された日米同盟

――では、冷戦が終わっても、「コラボレーター」としての日本のあり方が続いたのはなぜでしょうか。むしろ日米安保は強化されました。

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