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民主主義の破壊どう防ぐか 要人テロの歴史から考える

安倍元首相銃撃 残された課題(上)

山田 朗 明治大学文学部教授

 7月8日に勃発した安倍晋三元首相殺害事件は、首相経験者に対するテロとしては二・二六事件(1936年)で高橋是清と斎藤実が陸軍青年将校たちに殺害されて以来の出来事であった。内閣制度発足以後、殺害されたのは現職首相・首相経験者としては7人目、戦後の国会議員としては5人目である。

 安倍元首相への銃撃は言語道断であり、絶対に許されるものではない。

献花台には安倍晋三元首相の写真やメッセージなどが花と一緒に置かれていた=2022年7月15日、奈良市

 本稿では、まず近代以降の要人テロの歴史を振り返り、第1に、何が要人テロを生み出してきたのか、第2に、要人テロが何をもたらしてきたのか、そして第3に、現在におけるテロに対する言論のスタンスが、「民主主義の冒涜」「民主主義の破壊」への批判だけでよいのかどうかを考えてみたい。

 なお、本稿における「要人テロ」とは、政府・政界における要人(大きな影響力を有した人物)の暗殺という意味で使用する。

幕末維新期に第1のピーク

 日本の近代は、幕末の開国(開港)から始まる。1853(嘉永6)年のペリー来航以来、攘夷か開国かで日本は激動の時代を迎える。53年は「癸丑(きちゅう)」の年にあたるので、靖国神社では、この年以降に戦闘やテロに倒れたり刑死したりした人々をかつては「癸丑以来国事殉難者」、現在では「幕末維新国事殉難者」と呼んで合祀している。『靖國神社遊就館図録』によればその数は「四千柱を超える」とされ、この中には坂本龍馬や中岡慎太郎などのテロ犠牲者、吉田松陰などの刑死者、武市半平太などの自決者も含まれているが、中心は組織的戦闘で死亡した長州藩士などであると考えられる。ただし、「国事殉難者」とは言っても、靖国神社の性格上、あくまでも倒幕・明治維新政府側の「殉難者」だけが合祀されており、幕府側の死者は除外されている。明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑』全4巻(新人物往来社、1986年)には、幕末・維新期の維新政府側と旧幕府側を合わせた「全殉難者」は1万8686人と記されており、その大部分は戊辰戦争とそれ以前の組織的戦闘における戦死者であるが、テロに倒れた者も、数百人から千人に達するものと推測される。もっとも、この時代の暗殺の実数をつかむことは極めて困難である。

1853年以降の戦闘やテロで倒れたり刑死したりした人々を「幕末維新国事殉難者」と呼んで合祀する靖国神社

 幕末の尊王攘夷派と佐幕派のテロの激しい応酬は、安政の大獄が引き金になって1860(安政7)年の大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)から一挙にエスカレートし、主に京都を舞台として67(慶応3)年の坂本龍馬暗殺(近江屋事件)を経て、明治維新後も続く。1860年代から70年代は近代日本における要人テロの第1にして最大のピークであった。

 維新以後も、政府に不満を持つ不平士族たちによる要人テロが頻発する。70年代前後の主な犠牲者と未遂事件(襲撃されたが助かった事例:以下同じ)は左の通りである。

1869(明治2)年1月:参与・横井小楠
1869(明治2)年9月:兵部大輔・大村益次郎(11月死亡)
1871(明治4)年1月:参議・広沢真臣
1878(明治11)年5月:参議兼内務卿・大久保利通

未遂(襲撃)事件:右大臣・岩倉具視(74年)など

 明治中期以降、要人テロはやや下火となったが、それでも明治末年までに次のような犠牲者が出て、未遂事件も途絶えなかった。

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