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かつて国民統合、抑圧の装置 「国葬」が映す民主主義の今

国葬を考える

宮間純一 中央大学文学部教授(日本近代史)

国論が二分する中で

 2022年8月21日現在、安倍晋三元首相の「国葬」をめぐって国論が二分している。各社の世論調査の結果に多少の差は見られるが、反対が賛成を上回っているようだ。弁護士会・出版関連団体による声明、市民団体によるデモなど反対活動も目立ってきた。安倍元首相の衝撃的な最期から時が経ち、国葬の意味を考え直した人が増えたこと、旧統一教会との関係が明らかになり、自民党への不審感が高まったことなどが理由であろう。

「安倍元首相の国葬反対」などとシュプレヒコールをあげデモ行進する参加者たち=2022年9月19日、東京都渋谷区

 これに対して岸田首相は、国の公式行事として葬儀を行うことは「適切だ」と言う。また政府は、「国葬儀」は閣議決定で実行できるというが、一般的には理解しがたい説明である。

 このまま岸田首相は、批判の声を押し切って、国葬を断行するのだろうか。反対が半数以上を占める中で挙行すれば、本来国家を挙げて行われるべき儀式の体面が整わないばかりか、岸田首相が「断固として守り抜く」といった民主主義をないがしろにすることにもなる。

 『世界大百科事典』(平凡社)で「国葬」の項目を引くと、「国の大典として行われる儀式」という説明がある。他の一般的な辞書にも同じような記述がある。国葬の普遍的な定義としては、簡単だが適切な解説である。

 だが、同じ国葬でも、対象者や決定までの手続き、儀式の内容・目的は国によって違う。また、同じ国であっても、国葬がもつ意義は時代によって変化する。そのため、今日の日本で国葬を行おうとするならば、日本史上で行われてきた国葬を理解し、なぜ、多くの人に忘れられていた儀式を復活させなければならないのかを、よく検証する必要がある。

 小稿では、日本近代史研究者の立場から国葬の意味を考察し、今回の国葬問題に対して私なりに感じている問題点を提示したい。

「特旨」により賜った

 日本の国葬の初例は、1883年に行われた岩倉具視(ともみ)の葬儀である。以来、天皇・皇太后を除けば、6人の皇族、2人の元大韓帝国皇帝、12人の政治家・軍人の国葬が1945年までの間に営まれた。ここに、国葬の制度がなかった時期に国葬に准ずる規模で実施された大久保利通を加えると、13人の政治家・軍人の葬儀が国家の儀式で営まれたことになる。

 彼ら、天皇に仕えた「臣下」の国葬は、「特旨」(天皇の特別な思し召し)によって故人に賜るものであった。天皇の名のもとに、国家を挙げて「功労者」を追悼する場が国葬だった。

 近代日本の国葬は、天皇の意思を受けて、政府が執行する形がとられていた。岩倉から1924年に行われた松方正義までの「臣下」9人の国葬は、法令にもとづいて実施されたわけではない。候補者がいれば、政府でその都度審議し、決定後、裁可(天皇の決裁)を経た上で政府が実行した。

 こうして慣例的に行われていた手続きを明文化したのが、国葬令である。国葬令は、明治後期から伊藤博文を総裁とする帝室制度調査局で検討されていたが、天皇などの大喪儀(たいそうぎ)や皇族の喪儀について定めた皇室喪儀令とあわせて1926年に公布された。

 国葬令は、内閣の輔弼(ほひつ)(天皇が行う政治を助けること)により、天皇が定める勅令によって制定された。帝国議会での審議を要しない勅令であったことは押さえておきたい。

 国葬令は、皇室喪儀令とともに「国家凶礼(きょうれい)(凶事に関する儀式)ノ大綱」を明確にするために制定された。第一条では天皇・皇后などの大喪儀を国葬とすること、第二条では皇太子以下の皇族を国葬とすることが定められた。第三条では、「国家ニ偉勲アル者」に「特旨」をもって国葬を賜うことがあると規定された。

 「特旨」は勅書(天皇の意思を記した文書)によって示され、内閣総理大臣がこれを公告する。また、皇族以外の国葬の場合、当日天皇は執務につかず(廃朝)、国民は喪に服し(第四条)、喪儀の内容は、内閣総理大臣が天皇の勅裁を受けて決定する、とされた(第五条)。

 帝室制度調査局が作成した国葬令の解説によれば、天皇・皇后らの喪儀を国葬とすることは、「我国体ニ於テ当然ノコト」だという。第三条の趣旨は、「国家ニ偉勲アル者」の国葬が「異常ナル特典」であることを明白にすることが目的だとされた(「公文類聚」他)。

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