報道とジェンダー(下)
2022年09月28日
近年、メディアはジェンダーに「敏感」である。政治家らの失言を批判する一方で、自分たち自身も「女性差別」はもちろん「性別による決めつけ」をしないよう、各社は細心の注意を払っている。
背景には、ジェンダーという言葉が一般化し、社会のあらゆる場面で「ジェンダーに配慮する」という認識が共有されるようになったことがあるだろう。この世間の空気自体、筆者が研究を始めた30年前とは隔世の感がある。
筆者は1990年頃より、ジェンダーの視点から犯罪報道について研究し、発表の機会を得てきた。本稿では、四方(2021、注1)など、これまで発表してきたものと重複するところもあるが、改めて自分の考えの軌跡をたどる中で犯罪報道の今とこれからを考えてみたい。
日本の犯罪報道は、犯罪事件の背景や原因の解明、読者、視聴者への注意喚起よりも、被疑者やその家族、場合によっては事件に巻き込まれた被害者を責める傾向が見てとれる。事件当事者にラベリング―多くは負のレッテルを貼り、社会から排除することにつながっている。
ジェンダーの視点から犯罪報道を振り返ると、少なくとも1980年代までは、犯罪事件と無関係に女性の容姿に言及する、異性関係を暴露する、さらには性犯罪被害者の落ち度を問うなどの表現が常態化していた。犯罪報道の在り方については、報道される者のプライバシーや人権の侵害、容疑者段階での犯人視報道などが、すでに問題とされていたが、女性被害者や女性被疑者については、さらに女性差別が加わるのだ。
女子高生コンクリート詰め殺人事件(1988年)の報道では、興味本位な見出しに被害者の顔写真、容姿や異性関係への言及、水着の写真を掲載する週刊誌まであった。新聞でさえ「なぜついて行ったのか」「なぜ逃げなかったか」と被害者の落ち度を問う論調が目立った。被害者にもかかわらず責められるという理不尽な状況である。
社会全体に被害に遭う女性はスキがあるなどの「強姦神話」や女性の性に厳しい基準を課す「性のダブル・スタンダード」が蔓延(まんえん)していたとはいえ、そうした考えを報道が伝えていた面もあったと言えよう。問題は、こうした報道が当事者への二次加害につながるだけでなく、性犯罪被害者に沈黙を強いるジェンダー規範を強化してしまうという視点がなかったことだ。
また、巣鴨子ども置き去り事件(1988年)の報道では、容姿や性関係への言及、母性の〝欠如〟が強調され、無責任な母親であると断罪された。一方で、父親の責任を問う報道はほとんどなかったように思う。何より、「犯罪の被疑者」であることと「性役割からの逸脱」が関連付けられる報道は、女性被害者の場合と同様にジェンダー規範の強化につながってしまう。
こうした報道に対して一部のフェミニスト研究者が批判を行ったが、報道の現場にインパクトを与えるには至らず、2000年代になっても報道の傾向に大きな変化はなかった(注2)。
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