宗教とメディア
2022年12月19日
手元に『永遠の家族』という本がある。表紙の上部は白色で、中央部は鮮やかなブルー。下部に灰色の岩が確認でき、そこでようやく、これが写真なのだと気づく。改めて眺めると、美しく目立つ青が晴天の空だと分かり、なんともやるせない気持ちになる。2015年に出た本書は、大災害に遭遇し楽しいひとときが突如暗転した人々の記録だ。編著は世界平和統一家庭連合広報局。当時、名称変更したばかりの旧統一教会である。
14年9月27日昼、長野、岐阜両県境に位置する活火山の御嶽山が噴火、58人が死亡し、5人が行方不明となった。その犠牲者の中に旧統一教会の信者がいたことはあまり知られていない。教団行事に参加した17人が事故に巻き込まれ、小学生、高校生を含む4人が亡くなった。本書のサブタイトルには、教団で「死」を意味する「聖和(ソンファ)」の文字も出てくる。
犠牲者や生還者の当時の様子、故人の人となり、家族愛などがしっかりと書き込まれ、携帯電話の通信記録もある。その事実のほとんどは新聞やテレビが大量に報じた通りだが、マスメディアからは当時の「統一教会」とそれに関する情報がすっぽりと抜け落ちている。一部の新聞は「宗教団体」との表記で報道しているものの、統一教会のパーティーだった事実は各社が伏せた。当時、統一教会が記者会見を開いているにもかかわらず、である。それは、なぜだろうか。
新聞、テレビの報道現場で長く働く記者やディレクターは、同じ業界の人間からこうした問いが投げかけられるのを不思議に思うだろうか。あるいは、カマトトぶった質問だと感じる向きもあるかもしれない。実際、私が事故の担当デスクだったら、現場から上がってきた「統一教会」の名前は躊躇なく外したはずだ。それはマスコミ人としての「普通」の作法だと思う。ただ、明確な原則や根拠はなく、「問題がある団体、特に宗教団体だから」外すのだろう。
被害者が統一教会ではなく、他の宗教だったらどうか。例えば、山を信仰の対象とする講。あるいは、有名寺院の信者による団体参拝、山間部にあるカトリックの修道院訪問。いずれも長い歴史を持つ神道や教派神道、仏教、キリスト教である。では、新宗教はどうだろう。天理教、創価学会、立正佼成会、生長の家、真如苑。1970年前後に成立したGLA、80年代の幸福の科学。近年、宗教2世問題で取りざたされることが増えた「エホバの証人」はどうか。山の霊気を愛するスピリチュアル系グループは?
習俗や伝統行事と結びついた既成宗教の場合、迷うことなく名前を出しているはずだ。新宗教の場合は微妙で、各社によって判断が分かれるかもしれない。知名度が低いと、出さないケースが増える。知らない=怪しいという触覚が動くのではないか。強固な信仰に基づき、輸血や柔道、剣道などの格技の拒否で社会的に話題になったエホバの証人は、名前を伏せる社が多いかもしれない。スピリチュアル系グループは、組織性や宗教的な要素が濃くなければ、出している気がする。
判断の理由は何か。個人のプライバシー保護か、名前を出すことが教団やグループのPRに結びつくと考えるからか。いずれにせよ、本人か、社会の不利益を考慮した上でのことだろう。宗教色が、あるいは教団色が、薄いと感じれば感じるほど、名前が出やすいのは経験的に想像できる。それはどうしてか。なぜ、一般紙や地上波テレビなどのマスメディアは、ほとんどの宗教を「隠す」のか。それは新しい宗教で特に顕著である。本稿はその問いから出発する問題提起である。
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