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原発事故被災地とメディア 地元に訪れた「平穏」への違和感 共に考えてくれる存在待ち続けて

吉川彰浩 一般社団法人AFW代表

 私は一般社団法人AFW(Appreciate FUKUSHIMA Workers)の代表として、東京電力福島第一原子力発電所(1F)の事故が起きた地域に暮らしながら教育事業を行っている。

 AFWは任意団体時代も含めれば今年で10年目に入った。原発事故被災地域と1Fを題材として、歴史に残る出来事をどのように次の世代に活(い)かすことができるのか、日々模索している。

 模索した考えを様々な立場の人たちへと話してきた。企業の人たち、大学、高校、中学校などの学生、社会課題に取り組む団体、官公庁の職員、政治家、ジャーナリスト、被災地へ思いを持つ人たち、気が付けば1万人以上の方に会っている。

 年齢も性別も職業もばらばら。「学び」という視点で原発事故を扱った時に、これほど多種多様な方に会えたのかと思うと、原発事故という出来事は普遍的な学びを生むことができるのではないかと感じずにはいられない。

 私が身を置く場所は、近年においてはジャーナリズムの対象として、最も量、期間ともに扱われてきた場所ではないかと思う。世界中が注目し、連日連夜報道されたことは、コロナ禍、ロシアによるウクライナへの侵略など世界的に扱われるニュースと比較しても圧倒的に多い。ジャーナリズムの対象として過熱していた時代には、私自身もその対象になった。

 これらの立場・経験から語っていく。ジャーナリズムに関わる人たちが「ジャーナリズムとは」を考えてくれる機会になればと期待しながら。

メディアが去って生まれた「平穏」

 原発事故後しばらくは、座しているだけで、テレビや新聞に取り上げられる機会は多くあった。実に騒がしい世界にいたと思う。テレビや新聞の記者、フリーのジャーナリストらが町を歩いている風景は珍しいものではなかった。

 ところが、震災・原発事故が起きて10年を過ぎた頃から、地域でメディアの存在を見ることが減った。それは福島県外のメディアに顕著だった。

 なじみの記者からそうなることは教えられていた。メディアの世界には節目があり、3年目、5年目、10年目がそうだと。「10年を超えると取り上げ続けることが困難になる」と。

 10年という時間軸では解決されていないものが被災地には残っている。避難指示すら解除されない地域、終わりの姿が見えない1Fの廃炉、避難指示が解除されても事故前の風景には戻れない地域―。この地域に暮らし続ける人たちがいることを思えば、私はメディア側が設ける無意味な区切りで報道が縮小することに、強い憤りを感じたことを覚えている。

 だが、そんな怒りとは裏腹に、メディアに取り上げられなくなった現在は、何とも穏やかな日々を過ごしている。

 かつて、報道される度に心無い声が地域に向けられた。「そんな場所に人を住まわせてよいのか!」「放射能がうつる!」「福島のものは食べない!」。差別的な内容ばかりだった。ネガティブな福島が形成されていった。

 メディアが現地の問題や課題を社会に伝え続けたのは、解決を望んだからだと思う。だが、福島に関わる報道の場合、残念ながらそれは救済ではなく、そこで暮らす人たちをより苦しめてしまうことになった。報道されないことは、そうした苦しみからの解放だった。

 「報道されなくなることが復興だ」と、喜ばしく語る人も地域には多い。私もそう思う。避難指示が早期に解除された町ではいま、子供たちが元気に学校に通い、大人たちは仕事へ行き、夜になれば家族のだんらんを思わせる明かりが見てとれる。地元の新聞には、地域で行われた行事の様子が掲載され、その記事は子供たちが主人公であることが多い。枕ことばのような「震災後初の~」といった見出しは減り、明るいニュースが紙面の多くを占めている。

 現在も避難区域が残る地域はあるし、避難解除となっても課題を抱えたままの地域はある。なのに、取り上げられないことで生まれる「平穏」を喜ばしいとさえ思っている。

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