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「水俣」と向き合った半世紀 被害者の遺言を社会に託す

水俣フォーラム誕生前史

実川悠太 水俣フォーラム理事長

 今でもたまに「水俣の方ではないんですか」と驚かれる。熊本県の水俣市とは縁もゆかりもなかった。そんな私が「水俣」と付き合う(以前はこういう言い方をよくした)ようになって、50年が過ぎた。続けられたのは、結局「おもしろいから」に他ならない。もちろん刹那的享楽的なものではないし、何度か離れようと思ったこともあったのだが。

水俣病患者と支援者の行くところ、常に「怨」の黒旗が翻った=1972年10月28日、東京都千代田区丸の内にあったチッソ本社前

 1972年春、東京駅丸の内南口にチッソ東京本社があった。その入り口前の路上で、川本輝夫さんたち水俣病患者の自主交渉派と呼ばれた人たちが座り込んでいた。歩道に立てたテントは排気ガスでひどく汚れていた。

 初めて訪れた日、座り込みを支える西新橋の事務所まで足を延ばした。東京新聞販売所5階の一室で、事務机3卓と電気コタツを置いた不思議な空間だった。映画「水俣―患者さんとその世界」を作った土本典昭さんと、映画「沖縄列島」を作った東陽一さんという監督二人を擁する独立プロダクションの事務所で、「東京・水俣病を告発する会」の事務所にもなっていた。以後、この2カ所を訪れるようになったのは、当時まだ勢いがあった新左翼の言葉の空回りに気付き始めたひねた高校2年生にとっても居心地が悪くなかったし、他の集会やデモではまず居合わせることのない物腰の〝本物の民〟の役に立ちたいと思ったからだ。

石牟礼さんとの出会い

 石牟礼道子さんと初めて会ったのもここだった。土本さんたち映画スタッフとの打ち合わせに来たようで、あの『苦海浄土』の著者であることはすぐにわかった。歳は母の二つ下だから40代半ばだったはずだが、なにか深いところに棲んでいるような、それまで出会ったことのない雰囲気で、帰り際に「学校帰りにご苦労様です」などと声を掛けてくれた。

 その時、私が学生服だったことを、晩年の石牟礼さんは還暦前後の私に何度も語ってくれた。

 そのころ、座り込んでいた患者さんは毎朝階段を昇ってチッソに「相対(あいたい)の交渉」を求めていたが、毎回、社員の暴力をもって拒まれていた。そんな患者さん個々人の話を直接聞きたくとも私の耳は水俣言葉にまったく慣れていなかった。それでも伝わってくる出来事は新鮮だった。中でも川本輝夫さんの存在は抜き出ていた。

 ある時、女性週刊誌を名のる記者が「ソ連や中共から資金が出ていると聞きますが」と言った。川本さんは「余所ではそういう話を聞くこともあるばってんか、私ら病人ばかりで(生活)保護貰うのも心苦しいが子供や年寄りも食うや食わずで。済まんが、どうすれば貰えるのか調べてもらえんじゃろうか」と、深々頭を下げた。記者は無言で立ち去ったという。

 こんなことも聞いた。患者さんとともにテントで寝起きして街頭カンパに立つ者の大半は学生だったが、試験期間の前ともなれば「すみませんが、少し来られなくなります」と患者さんたちに頭を下げた。言われた方も頭を下げて「いつもすまんですなあ。親御さんのためにも勉強して下さい」と言うのが常だった。

 しかし川本さんは違った。「私ら小学校しか出とらんがチッソの重役は東大やらそんなんばかりで、大学が今のままなら水俣病はいくつあっても足りん」と。

 こんなにはっきり言われなくとも、水俣病事件の子細に分け入れば、誰でも思うことだったから、退学してアルバイトで食い繋いで支援活動に専念する者は珍しくなかったし、私たち高校生グループに属する者なら受験を放棄する者も少なくなかった。そういう時代だった。

1974年6月に初めて水俣を訪ね、チッソ東京本社内で知り合った同世代の胎児性患者・坂本しのぶさん(前列右)や地元支援者に誘われて、水俣病患者収容施設だった明水園に入所中の加賀田清子さん(前列左)との面会に同行した=筆者提供

 私は往生際が悪く、73年3月、注目されていた水俣病裁判判決目前の座り込みテントから授業料の安い国立大学の受験会場に連れ立って、帰り路には「水俣病の問題出たな」「出た、出た」などと浮かれていたが、答えに自信があったのはそれだけに近かった。

 座り込みテントは撤去の日を迎え、学生の大半は日常へ戻っていったが、事務所には必要な仕事がまだたくさんあった。座り込み中に川本さんが傷害容疑で逮捕、起訴された事件の弁護活動や水俣病センターの設立資金集めなどなど。それを知りつつ、浪人中ゆえ少しは距離を置くべく行かずにいたら、事務所からわざわざ家まで頼みに来てくれた。もう我慢できなかった。クソおもしろくもない受験勉強を後ろめたい気持ちでこれ以上続ける気にはならなかった。家を出て事務所下の新聞配達員になって東京タワー近くの古い木賃アパートの一室をあてがわれ、支援の活動にのめり込んでいった。

 丸1年後、患者たちが環境庁交渉や川本さんの裁判のために大挙して上京する日々が数カ月続き、その付き添いを毎回務めた。ある日、早稲田の宿舎に戻って来たら、お婆ちゃん二人がいない。あわてて引き返すと、乗り換えた旧国鉄飯田橋駅のホームの端で新聞紙を敷いてちょこなんと座って微笑んでいた。苦海浄土第二部『神々の村』の最終章に出てくる仲良し、江郷下マスさんと坂本トキノさんである。

 緒方正人さんも初めて上京した未認定患者の一人だった。寡黙な緒方さんから初めて掛けられた言葉が忘れられない。氏名を覚える間もなく2、30人であちこち行って宿舎に入り、夕食も終えた後の廊下だった。「すまんが別の呼び方にしてくれんじゃろか、恥ずかしかけん。『おい』でんよかっで」。川本さんと水俣病認定申請患者協議会(申請協)初代会長の岩本広喜さん以外は誰でも「患者さん」と呼んでいた。ソリを入れていた緒方さん20歳、長髪だった私19歳である。

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