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戦時下、政府批判は敵を利するのか 報道の独立、今こそロシアとの違いを 「ウクライナ・プラウダ」のセウヒリ・ムサイェワ編集長に聞く

戦争の「盾」~ジャーナリズムの責任~(1)

セウヒリ・ムサイェワ 「ウクライナ・プラウダ」編集長

 ロシアがウクライナに対する全面侵攻を始めてから1年が経過した。独立系メディアの活動停止や、ジャーナリストの国外退避が続くロシアと異なり、ウクライナでは1991年のソ連からの独立以来、おおむね自由な報道が続いてきた。しかし、多くのメディア企業の経営は安定せず、当局による圧力、オリガルヒと呼ばれる新興財閥の支配を受けてきた。ロシアと欧州に挟まれた地にあって過去20年に欧米路線の政権を生み出した2004年の「オレンジ革命」、2014年の「マイダン革命」を経験、社会が揺れ動く中で、ジャーナリズムも紆余曲折の道を歩んできた。今、ロシアによる全面侵攻下で、ジャーナリズムはどんな問題を抱えているのか。ウクライナを代表するニュースメディア「ウクライナ・プラウダ」のセウヒリ・ムサイェワ編集長(35)に話を聞いた。

――ロシアがウクライナへの侵攻を始めて間もなく1年になります。ウクライナのジャーナリズムは1991年にソ連から独立して以来の未曽有の戦時体制下で活動を強いられています。まず、この戦争が始まるまで、ウクライナのジャーナリズムと「ウクライナ・プラウダ」がどんな歴史をたどってきたのか、教えてください。

ムサイェワ 私が編集長を務める「ウクライナ・プラウダ」はウクライナの独立メディアで、今年創設23周年を迎えます。ウクライナの独立10年目の2000年に2人のジャーナリストによって創設されました。

 当時、ジャーナリズムは今よりずっと難しい状況にありました。今は独立したメディアやメディアビジネスの発展について語り合うことができますが、当時のメディアは圧力下にありました。政府はテレビをコントロールしていました。まだ国営テレビもありました。ウクライナ・プラウダの創設者の一人であるゲオルギー・ゴンガゼ氏はテレビ局のブラックリストに入れられ、同じジャーナリストで、もう一人の創設者であるオレーナ・プリトゥーラ氏とともに自分たちのメディアを作ろうと、2000年4月にインターネットメディアのウクライナ・プラウダを立ち上げました。

 「プラウダ」は真実という意味です。一方で、それはソ連時代、ロシアのプロパガンダの主要な道具でもありました(「プラウダ」は、ソ連メディアを代表した共産党中央委員会の機関紙名)。ゴンガゼ氏はユーモラスな人でしたが、単にジョークでこの名前をつけたわけではありません。彼は古い概念に新しい意味を与えたいと考えたのです。ソ連の「プラウダ」紙はフェイクニュースとプロパガンダの源でした。でもウクライナ・プラウダは独立メディアの先例になろうとしたのです。それが彼の夢でした。

 創設当時の状況が悪かったのは、ウクライナでインターネットが広がる初期段階だったせいもあります。最初、ウクライナ・プラウダの読者の数は限られたものでした。そんな中で、創設から6カ月後、ゴンガゼ氏は拉致され、首を切断された遺体となって発見されたのです。この事件は、ウクライナで最も危機的な政治事件となりました。メディアにも大きな衝撃を与えました。

インタビューに答える「ウクライナ・プラウダ」のセウヒリ・ムサイェワ編集長=2023年1月23日、キーウで、筆者撮影

「ウクライナ・プラウダ」(Українська правда)
 2000年に創設されたウクライナを代表する独立系インターネットメディア。姉妹サイトとして「ヨーロッパ・プラウダ」「経済プラウダ」などを運営する。創設者のジャーナリスト、ゲオルギー・ゴンガゼ氏が同年9月に殺害されたあと、共同創設者の女性ジャーナリスト、オレーナ・プリトゥーラ氏が編集長を務めたが、親ロシア路線の政権が崩壊し、南部クリミア半島の併合などロシアの軍事介入が始まったあとの2014年10月、外部から当時27歳だったジャーナリストのセウヒリ・ムサイェワ氏が招かれ、編集長に就任した。プリトゥーラ氏は2021年5月、経営権をチェコの投資家トマス・フィアラ氏の投資企業ドラゴン・キャピタルに譲渡した。

――当時ウクライナのクチマ政権の関与が疑われた「ゴンガゼ事件」ですね。

ムサイェワ 5年後にゴンガゼ氏を殺害した実行犯が見つかりましたが、私たちは今もまだゴンガゼ氏殺害の指示を出したのが誰だったのか答えを得ていません。不幸なことに、それは当時のレオニード・クチマ大統領だったのかもしれないのです。ゴンガゼ氏はクチマ氏を強く批判していました。彼が拉致され、殺害された後に出回った録音テープにはクチマ氏が「何とかしろ」と彼の拉致を指示する声が残されていました。ウクライナ・プラウダは2004年にオレンジ革命が起きるまで圧力にさらされました。

 一方で、この事件が起きたことによって、言論の自由がウクライナで最も重要な価値となったと言えます。ゴンガゼ事件の真相究明を求める声は、オレンジ革命へとつながる大きなきっかけの一つとなりました。

 05年までウクライナ・プラウダは財政的に寄付に頼っていました。独立したメディアではありましたが、独立したビジネスモデルを持っていなかったのです。オレンジ革命で民主主義が勝利したことが変化のきっかけになりました。広告が集まるようになり、寄付者からも独立することができたのです。ウクライナ・プラウダは独立ジャーナリズムとしてだけでなく、財政的独立とビジネスモデルの偉大なる先例の一つにもなりました。それはたいへん難しいことでした。

 オレンジ革命の後、ウクライナ・プラウダは調査報道で中心的な存在になりました。我々は大統領やその息子、首相をめぐる調査報道を行いました。

「プラウダをつぶす」

――ただ、オレンジ革命の結果行われたやり直し大統領選でクチマ大統領の後継候補ヤヌコビッチ氏を破った親欧米路線のユーシェンコ大統領の政権は結局内紛で有権者の支持を失い、次の10年の大統領選ではヤヌコビッチ氏が当選します。そこから14年のマイダン革命が起きるまで、メディアはどんな状況だったのでしょうか。

キーウ近郊のフレワハで2023年1月27日、ミサイル攻撃で破壊された自宅の台所で状況を嘆くハリナ・パナシアンさん=朝日新聞社

ムサイェワ ヤヌコビッチ政権時代にも、ウクライナ・プラウダは多くの調査報道を発表しました。ヤヌコビッチ氏の家族はたくさんの汚職に関係していました。ただ、そのころ私はまだウクライナ・プラウダにはいませんでした。

 当時の私の話をしましょう。私は「フォーブス・ウクライナ」誌(米誌フォーブスのウクライナ版)の記者で、以前からヤヌコビッチ氏のインナーサークルや彼のビジネスについての取材をしていました。そして10年にヤヌコビッチ氏が大統領に就任したとき、圧力を覚悟しました。

 13年11月に始まった抗議行動にはたくさんの原因がありました。まずはヤヌコビッチ氏が欧州統合のプロセスを止めてしまったこと、そして政権がメディアに対して非常に攻撃的な圧力をかけたことです。たとえば彼らは最大の反政権派テレビ局をつぶしました。私はフォーブス誌でヤヌコビッチ氏に近い若手のオリガルヒ(新興財閥総裁)についての調査報道を続けていたのですが、その本人がフォーブスを含むメディアグループの役員に就任し、オーナーになってしまいまったのです。私がフォーブスを離れたのはそのためです。編集長を含む多くのジャーナリストが私に続きました。圧力を感じ、同誌はもう独立したメディアではないと考えたからです。

 ウクライナ・プラウダも圧力を受けていました。ヤヌコビッチ氏のインナーサークルの多くのオリガルヒがウクライナ・プラウダをつぶすと言いました。ウクライナ・プラウダを破壊するため100万ドルを投入すると語ったオリガルヒもいました。ウクライナ・プラウダはサイバー攻撃も受けました。

 ただ、ここでもゲオルギー・ゴンガゼの物語がウクライナのジャーナリズムを守ったのです。彼らが我々やウクライナ・プラウダを攻撃するのが難しくなったのは、ゴンガゼ事件というネガティブな出来事があったからです。当時のクチマ政権に対する事件のインパクトは恐ろしいほどのものでした。おそらく、彼らは同じ過ちを繰り返したくなかったのです。だから、その後の為政者は圧力をかけながらも記者を殺すことはしなかった。

 13年からヤヌコビッチ政権が倒れる14年2月までの抗議行動は、ウクライナでは「尊厳の革命」と呼ばれます。その間、ウクライナ・プラウダは人々の重要な情報源になりました。一方で、メディア市場は新興財閥の支配下にあり、いくつかは政府を支持し、いくつかは反対する立場をとりました。ウクライナ・プラウダは常に圧力を受けていましたが、困難を切り抜け、原則を維持しました。14年、ウクライナ・プラウダは重要なウクライナ・メディアの一つになりました。

言論の自由が国を守る

――14年の革命はメディアにどんな影響を与えたのでしょうか。

ムサイェワ オレンジ革命と「尊厳の革命」の二つの革命がメディアを変えました。私が言論の自由は重要な価値だと言うとき、それはもう私個人の言葉ではなく、社会全体に共有された言葉だと感じます。国の中で言論の自由を持つことは重要で、それが国を守ることになります。自由なメディアの重要性を理解しない人もいる。しかし、社会で活発に活動する人たちはそれを理解し、守ろうとしています。

 我々と我々の隣人であるベラルーシ、ロシアとの違いを見てください。ロシアでは多くのメディアが破壊されました。一方、ベラルーシでは、ルカシェンコ大統領に対する退陣要求運動が弾圧された20年までは一定の独立系メディアが活動することができていました。インターネットメディアの「ベラルーシ・パルチザン」や「トゥット・バイ」(いずれもその後の弾圧で活動停止)などです。これらのメディアが存在したからこそ、20年の抗議活動が可能だったのです。

 ロシアでは、特に12年のプーチン氏の大統領復帰に対する抗議行動以来、状況はまったく違ったものになりました。当局がメディアを破壊し始めたのです。多くのメディアは経営陣と編集方針を変えました。インターネットメディア「メドゥーザ」は弾圧を避けるため、拠点を隣国ラトビアの首都リガに置いて活動を始めましたが、その影響力はロシア国内の国営テレビと比べれば弱いものでした。

――ただ、14年の革命で親ロシア路線の政権は倒れましたが、その直後にプーチン政権のウクライナ南部クリミア半島併合や親ロシア派武装勢力による東部の占拠など、今の戦争につながるロシアの介入が始まります。

ムサイェワ 我々は詳細な報道を続けました。2016年には我々の同僚、パーベル・シェレメト記者(ベラルーシの独立系ジャーナリスト、「ベラルーシ・パルチザン」の創設者。クリミア半島併合後に当時いたロシアからウクライナに移動し、「ウクライナ・プラウダ」に移籍)が車爆弾で殺害されました。

 2022年にロシアの全面侵攻が始まったとき、我々はウクライナではグーグルに次いで2番目に大きなウェブサイトになっていました。侵攻開始後の昨年の3月には10億人が我々のサイトを見ました。

 ただ、ウクライナ社会は「尊厳の革命」や14年の出来事の後、より愛国的になりました。我々は新しい問題に突き当たり、独立と新しい編集方針について考えなければなりませんでした。ウクライナのテレビ局は政権の圧力は受けていませんが、彼らのオーナーの影響力を受けています。

2023年1月13日、ビデオ演説で戦況について話すウクライナのゼレンスキー大統領=SNSに投稿された動画から

――ウクライナの多くのテレビ局は、14年の後もずっとオリガルヒたちの支配下に置かれたままでした。それぞれの局が異なるオリガルヒの支配下にあり、その利益が明らかにそれぞれの報道内容に反映されていました。ゼレンスキー大統領が当選した19年の大統領選でもその傾向が見られました。

ムサイェワ その通りです。残念ながら、ウクライナではロシアによる全面侵攻の直前まで、85%のメディア市場がさまざまなオリガルヒの影響下に置かれていました。この国でメディアは政治的腐敗の要素にもなっていたのです。私はそれが1998年の議会選から始まったと考えています。彼らは議会で影響力を持つためメディアをコントロールしなければならなかったのです。支配下の政党や政治勢力を強くすれば、さらに強い影響力や票を集められたのです。そして連立政権に加わり、重要な決定権が得られた。このシステムが長年にわたって機能しました。

 それは、2019年の大統領選や議会選でも残っていました。親ロシアのテレビ局が「野党プラットフォーム」に、テレビ局「1+1」がゼレンスキー氏の選挙運動に影響しました。ゼレンスキー氏が大統領役を演じたドラマ「国民のしもべ」やテレビショーを「1+1」が放送しなければ、(ゼレンスキー氏の当選は)不可能でした。

 ただ、その状況は今回の戦争で変わりました。ウクライナ最大の富豪のリナト・アフメトフ氏はテレビ局を含む彼のメディア企業を売却しました。

 今あるのは「合同テレビ」だけです。これは結果的に以前と同じように当局にコントロールされてしまっています。戦時下で「ひとつの声」が重要であることは理解しますが、この状況はよくないと思います。

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