戦争の「盾」~ジャーナリズムの責任~(6・完)
2023年03月29日
日本漢字能力検定協会が昨年発表したその年の世相を表す漢字は「戦」でした。それにはサッカーワールドカップでの戦いも含まれているようですが、もちろんウクライナを侵略したロシア軍とNATOに支援されたウクライナ軍との戦いが影響したのでしょう。さらに、この戦いの影響は、とりわけ若い世代が「攻めてきた時にどうする」という視点でよその国を見るふうに変えたように思います。まさに戦争することを前提で国家間のことを考えるようなもので、もってのほかです。人間関係に置き換えてみればわかります。相手に叩かれると思っては親しくはなれません。
父・むのたけじは、「戦争のいらぬ、やれぬ世へ」と戦争をなくすことに執念を持っていました。戦争をなくさなければ、人類の寿命は40年しかなく、もし戦争をなくせば地球の寿命と同じく40億年だろうとまで言っていたのです。そこまでこだわりを持っていた父が亡くなって7年も経たないのに、ウクライナ戦争が起き、父の思いと違う方向に歩んでいます。
ウクライナ戦争ばかりではありません。世界を見回すと、昭和の東西冷戦時代を思わせるブロックを作って、相手側を攻撃するプランまで練っている。しかし、今人類は、地球温暖化、コロナ禍、核問題など地球規模で解決しなければならない問題を多く抱えていて、今争っている場合ではない。睨み合う状況を少しでも変えたいと、父が私に残してくれたものを皆さんにも伝えたい。
私が生まれたのは1953年で、父が38歳の時です。この頃の週刊新聞「たいまつ」は事務所を町の中心部に置いて、人も雇って発行していましたが、経営の行き詰まりがきていた時です。それを打開するべく、人の勧めもあって、2年後に衆院選、59年に横手市長選にも出ます。しかし、この目論見は落選で終わります。これを契機に「たいまつ」の購読をやめる人が多くなり、手伝ってくれていた仲間もいなくなり、一層苦しくなった中で私は育ちました。
むのたけじ
1915(大正4)年1月2日、秋田県六郷町(現美郷町)生まれ。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒。報知新聞を経て40年に朝日新聞入社。敗戦の日以降出社しないため9月1日付で依願退職。48年2月、秋田県横手市で週刊新聞「たいまつ」創刊。著書に『希望は絶望のど真ん中に』『99歳一日一言』『老記者の伝言』など。2016年8月21日、老衰のため101歳で死去。
そんな思い通りにいかないことで、父は母に当たることがありました。私は6歳くらいで、なんでも真似をする時です。私は父を真似て、姉などに同じように当たるのです。それをたまたま見ていた父が私に言いました。「おれもやめるから、お前もやめろ」。このことで、父は私に対してできるだけ影響をあたえず、遠くから見守ろうと思ったようです。一方、私は50歳を超えるまで父を反面教師とすることが多かったのです。
それでも、10歳くらいまでの間に大きく影響を受けたことが二つだけあります。その一つは、たぶん6歳くらいのころです。父が酒を飲んで上機嫌で帰ってきて、私のものが散らかっていたのかもしれません。父が使っている引き出しの一つを取り出して、「これを使っていいよ」と言いました。私は一人前に扱われたと喜んで、父の気分が変わらないうちにとその引き出しに自分のものを入れました。しかし、翌朝、「返せ」と言ってきたのです。それに対して私は「約束したことは守れ」と猛然と反発しました。その頃の父は絶対的な存在でしたから、兄姉たちは誰も反抗することがなかったし、父が折れることもありませんでした。それでも私は抗議して、父を折れさせたのです。この経験で正しいと思うことは主張し、正すべきだと私は強く思うようになったのです。
もう一つは、私が8歳の時のことです。「たいまつ」の経営立て直しのために、町の中心部にあった事務所を郊外の自宅に移しました。自宅の中に出来上がった活字を組む台に父は「朝の来ない 夜はない」と書いた一枚の色紙を置いていました。そのころ、私は漢字も少し読めるようになったころで、「夜の来ない朝でも同じではないか」と言いました。それに対して、父は「それでは意味が違う」と、強い口調で返し、言葉には事実を表すだけでなく、より深い意味を持たせることもできると教えてくれたのです。色紙の意味は、その後の実生活で知ることになります。
しかし、わが家に朝はそう早くは来ませんでした。夜明け前が最も暗いと言いますが、まさにそれを経験しました。家族を守ろうと頑張っていた母が子宮筋腫で手術することになりました。その時、私は9歳でしたが、父は母の代わりに弁当を作って学校に送り出してくれました。父の存在を頼もしく感じたことを覚えています。
母の手術は成功し、退院しましたが、以前のように「たいまつ」の広告取りなどの手伝いはできなくなりました。それでも、二女の大学受験の付き添いで東京に出かけた際、かつて「たいまつ」を手伝ってくれた大野進さんと会って、『たいまつ十六年』の出版の話を持ってきてくれました。この企画は63年秋に実を結びます。この出版をきっかけにして、父は活動的になりました。私たち家族の経済的苦境も解消していきます。
事務所を自宅に移してから出版に至る2年余りはとりわけ苦しい時期であったと思います。朝日新聞時代の上司だった信夫韓一郎さんから時折お菓子などが届いていましたので、朝日新聞に勤めていたことは知っていたと思います。しかし、「今も朝日新聞に勤めていたら?」とは誰も言わなかった。私は幼かっただけかもしれませんが、父は理想に燃えて生活していると考えていたのだろうと思います。
また、苦しかったこの時期でも、長男を東京の大学に通わせ、二女にも大学受験をさせていましたから、自転車操業的な生活ではありましたが、子どもたちが不満を持つようなことがないように両親ががんばったに違いないと思います。
ちなみに、「たいまつ」は48年から12年間は仲間もいて、「平和の戦列」などの社会運動の学習成果を発表する場でもありました。61年からは、むのたけじの個人新聞に性格を変えて78年まで18年間続きました。
私が10歳になった63年になると、私もまわりを見るようになります。私が暮らしていた東北の田舎にも高度成長の波が少しずつ届き始めていることを感じました。友達の家に行くと、少し豊かさが感じられ、マイホームパパ的な家族中心の生活に変わりはじめているのに気がつきます。わが家は今まで通り父の影響もあって社会問題に関心が向かう傾向が強かったので、すこし違和感を感じました。
翌年になると、「たいまつ」を家族で出しているということからマスコミの取材を多く受けるようになります。朝日新聞の記者だった父が、戦争責任を感じて辞めたことを問う質問もあったので、父の過去の事情もなんとなく知ることになります。ただ、特に家族内ではそのことが話されたこともなかったので、私は深く考えませんでした。
中学生になると、兄弟姉妹で新聞を配ったりしました。当時は家業を手伝うのが当たり前の時代でしたから、そのことが将来の仕事を考える上で影響するということはありませんでした。
当時、父が関わっていた言論というものには、人々の生活に強く影響を及ぼすのではという怖さを感じていました。だから、好きになれませんでした。そんな思いもあって、科学者の道を目指していきます。東京都立大学大学院に進み、順天堂大学医学部生化学講座に助手として採用され、研究者の道を歩み出します。筋肉が動く機構研究や細胞に入った異物の処理メカニズムなどの研究にあたります。この頃は研究室と家を往復するだけの生活で、社会のことを考えたりすることはほとんどありませんでした。
父は、私が就職して2年後の83年に眼底出血が見つかり、勤め先の附属医院で治療を受けます。その後も2002年に胃がんの手術、06年に肺がんの放射線治療など、父は病院と最終段階までの付き合いになりました。私は働くためだけでなく、患者の付き添いでも勤め先に通うことになりました。
私の研究は、簡単に言えば、生物の中では数えきれない「動き」がありますが、その一つ一つを細かく解析するものです。こうした研究を20年ぐらい続けていると、生物の数え切れない「動き」は、結局何をするためにしているかを考えるようになります。言い換えると、いわゆる「いのち」と呼ばれるものは何をなすための存在かということです。
結局、生物は自身を少しずつ変化させて環境に対応する進化論的なものと、今ある状態を保とうとするホメオスタシス的なものの相反する二つのことを、絶妙なバランスを取ることで生命そのものを長く存続させている。その思いを強くします。つまり、生物は存続させること自体がとても大切なのです。この生物の話は、人間の社会にも当てはまるように思いました。その思いを通して、私は父の活動にも興味を持つようになりました。
2000年代初頭、全国の大学は変革を迫られていました。私の勤め先の私大も、国立大学の独立行政法人化のような顕著なものはありませんでしたが、混乱していました。私は別の大学へ移ることを打診され、研究生活から離れることにしました。
この話を父に話すと、朝日をやめた時の話をしてくれました。
「戦時中のことを何も反省せずに、戦後、日章旗を星条旗に変えるだけで歩み出すことは耐えられなかった」
その話を聞いて、私は思いました。父は戦争責任を感じて社を去ったように言われていました。もちろんそうした側面もあったでしょう。しかし、それだけではない。戦争という悲惨なできごとを再び起こさないようにするには、新聞はどうすればいいのか。過去の反省だけではなく、未来に向かってやるべきことを考えたい。そんな積極的な思いがあったのではないかと。
10年冬、父は定期検診で私のところに立ち寄った時、10メートル歩いては休むほど体力がありませんでした。心不全が疑われたため、発作に備えて私のところに同居させました。
親子といえども長い間一緒に生活していなかった大人同士が一緒に暮らすとなると大変です。この時、男同士で快適に暮らすという狙いもあって、憲法をめぐる父の思いをテーマに、ふたりで本を作ることにしました。
父がコピー用紙に書いた大きな文字を、私がパソコンに打ち込んでいきます。こんな作業が3カ月ほど続き、『希望は絶望のど真ん中に』(岩波新書)はできあがりました。この作業を通じて、私は父の仕事の一端を学びました。
振り返ってみると、この時期の生活はいわゆる介護生活にあたるものだと思います。介護生活といえば、子供が親を一方的に面倒見るというように思われがちですが、できるなら親子がお互いに与え合うものにした方がいいのではと感じます。父は本を作ることが目的というよりも、私に知恵を伝えたいという思いでいたのではと思います。
私は最も役立つことを学びました。私も歳をとりますからいずれ介護される時、どう過ごせば良いか、父は見事にそのことを私に伝えてくれました。
父との生活で得られたことはいろいろあります。特に多くの人に共有してもらいたいもの、それは父のジャーナリズムへの考え方です。そこで、ジャーナリズムを志す人への指南書みたいなものを書いたら、と勧めました。父からは「新聞『たいまつ』を10号くらい復活させて、今後の新聞作りの道しるべとなるものを作りたいから協力してほしい」と返ってきました。しかし、私は新聞を出す苦労がわかっているので、そこまで深入りする気持ちにならず、指南書は実現しませんでした。
しかし、12年3月に朝日新聞入社1、2年目の研修会、5月に朝日労組の言論の自由を考える5・3集会、そして『絵本とジャーナリズム』という本を制作する過程を通して、私にもジャーナリズムの基本的なことを伝えてくれました。
それは次のようなことです。
ジャーナリズムの元となるジャーナルという言葉は、毎日の記録という意味で、その本質は、昨日、今日、明日と一日一日記録を付けること。だから、ジャーナリズムというのは、それをつなぎ合わせて体系的に物ごとが見えるように世間に提供することだ。そのためには過去と現在と未来の相互関係を探ることが大切だ。
そのために二つのことを言っていました。「よく書きたければ、よく読め」、そして「花鳥風月は話の種、話題でニュースではない、トピックスだ。新聞記事は話題と別だよ」ということです。
また、こんなことも言っていました。新聞の発足と民主主義の芽生えはほぼ同時期で、新聞は人民の切なる要望から作られているものだと思っている。従って、新聞はもっと読者が求めていることに気を使う必要があり、そうすることで新聞に新たな命を吹き込むことができる。
それなのに今の新聞は上から目線だ。いわゆる公平な報道とは、自分を一つ上に置いての報道ではないか。読者の声を拾い上げていくことこそが大切だ。だからといって、読者の声を鵜呑みに報道するだけでもだめだ。新聞が時として『こんなことをしてはダメだ』と読者をしかることも必要ではないかと。
15年の年末、父は「週刊金曜日」のコラムを引き受けました。その頃になると、今までの様に原稿を書くことが難しくなっていました。そこで、私が父から聞いたことを文章にまとめ、それを父に口頭で直してもらっていました。この時の経験からコラムを書く際の作法を学んだような気がします。ちなみにこのときのコラム名は「たいまつ」でした。父が願った新聞「たいまつ」の復活が形を変えて実現したのかもしれません。
「このごろ文章が上手くなったね」。父からそう言われるようになってまもない16年8月21日、私の手を軽く握って亡くなりました。
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