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「帝銀事件」 忘れられた事件、掘り起こす意義 過ちに光を当て教訓とする

戦後の闇を照らす

中川雄一朗 NHKディレクター

 「なんでそんな昔の事件を取材しているの?」

 何度も繰り返された質問だった。あるときは取材先から。あるときは上司や同僚から。そして、あるときは自分自身への問いとして。取材を始めた当初、私は明確にその答えを持っていたわけではなかった。しかし、放送を終えた今、75年前の事件を取材した意味が徐々に見えてきたように思う。

 衝撃のニュースが飛び交った2022年の末、私が担当した、NHKスペシャルの未解決事件シリーズ第9弾「帝銀事件」が放送された。これまでのシリーズでは、グリコ・森永事件やオウム真理教・地下鉄サリン事件、ロッキード事件など、誰もが知る重大事件を取り上げてきた。それと比較すると、今回の帝銀事件は、いまを生きる大多数の人にとっては知らない事件、誤解を恐れずに言えば「忘れられた事件」である。

NHKスペシャルの未解決事件シリーズ第9弾「帝銀事件」。NHKのHP(httpswww.nhk.or.jpmikaiketsuindex.html)から。NHKオンデマンドでも視聴できる

 それも無理はない。事件が起きたのは、終戦からわずか3年足らずのとき。日本はまだGHQ(連合国軍総司令部)の占領下にあった。突如、銀行に現れた男が12人を毒殺した事件は、戦後の復興へと歩み始めた社会を震撼(しんしん)させた。ただ、その衝撃も75年という歳月の中で、遠い記憶の彼方(かなた)へと消えていった。事件を直接知る当事者たちはみな鬼籍に入り、事件の凄惨(せいさん)さや怒り、悲しみといった感情を肌で知る人は、もはや一人としていない。

 しかし、帝銀事件は決して終わった事件ではなかった。犯人とされた画家・平沢貞通は、連日の取り調べで自白したものの、生涯にわたって無実を訴え続けた。雪冤(せつえん)のため、支援者や弁護士が再審請求を行っては、却下されてきた。その闘いは、平沢が獄中で死亡してからも終わることなく、何人もの人々にバトンが受け継がれてきた。現在も20回目の再審請求が行われている。

75年の歳月 時を超えた取材

 平沢は果たして犯人なのか。凶器となった毒物は何なのか。いまなお多くの謎を残すこの事件に、新たな視点と取材で迫れないか。そんな思いで出発した取材は、壁にぶつかることの連続で、放送まで6年もかかってしまった。

 時が経過した出来事の取材では、当時の関係者たちを訪ね歩き、秘蔵された資料を見つけたり、そのときは話せなかった証言を聞かせてもらったりする。しかし、今回の帝銀事件では、当事者の証言を取材の柱にはできなかった。ならば、子どもや孫など、遺族に話を聞くしかない。

 まず目をつけたのは、当事者たちの生前の住所だった。国会図書館に通い、昔の新聞記事をデータベースで検索する。捜査関係者であれば、訃報(ふほう)記事が出稿されている人もいる。昔の訃報記事にはまだ生前の住所が記されており、その古い住所が、現在で言えばどの住所番地にあたるのかを行政に問い合わせたり、いまの住宅地図と照らし合わせたりして、探っていく。

 家がまだ残っていて、子や孫がそこに住んでいれば幸運なほうで、だいたいは、家はすでに取り壊されていたり、再開発で地形が変わっていたりする。近所の古そうな家に聞き込みをしたり、周辺で同じ名字の人がいないか探したり、登記簿をとったりして遺族を探す。

 そうした地道な取材を続け、1人、また1人と遺族にたどりつくことができた。しかし、ようやく話が聞けたと思っても、子どもですら80を超える高齢で、話を聞くことが難しかったり、亡くなっていたりするケースも少なくなかった。そして、当時の捜査員たちは事件について詳しく家族に語り遺(のこ)していたり、何か資料を遺していたりするようなことはほとんどなかった。75年という歳月は、それほどまでに遠かった。

「自白」を新技術で検証

 遺族への取材が難航する中、番組では、新たな技術で、事件を検証できないかと考えた。鍵となったのは、平沢と検事との取り調べの一問一答を記した「検事調書」だ。事件では、物的証拠がなく、平沢の自白が有罪の決め手となっている。自白の一部始終が記されたこの資料を「テキストマイニング」という技術で解析を試みた。依頼したのは、これまで冤罪や冤罪(えんざい)が疑われる事件での供述分析を行ってきた立命館大学の稲葉光行教授。

NHKスペシャルの未解決事件シリーズ第9弾「帝銀事件」。NHKのHP(httpswww.nhk.or.jpmikaiketsuindex.html)から。NHKオンデマンドでも視聴できる

 稲葉教授は、調書の文章を単語ごとに分解し、頻出回数や係り結びなどを徹底的に調べ、時系列でグラフ化した。検事調書は、人間の目で読んでも違和感があるものだったが、テキストマイニングで全体を俯瞰(ふかん)すると、供述の変遷や矛盾が客観的に見えてくる。

 私が特に気になったのは、「凶器」についての供述だった。毒物の正体は、事件直後、「青酸化合物」とまでは特定されていたが、その正体については分かっていなかった。それにもかかわらず、取り調べが始まると、検事のほうから「青酸カリ」について切り出していた。さらに平沢は自白した後、現場に持って行ったのは「青酸カリ」ではなく、「塩酸だった」と供述。それに対し、検事が重ねて「青酸カリ」について問い質(ただ)すなど、誘導ととられても仕方がないような取り調べの手法が見受けられた。最終的に平沢は凶器を「青酸カリ」と自白する。

 平沢の供述からは、犯人になりきろうとしても詳細を語れない「無知の暴露」が見られると稲葉教授は指摘した。「冤罪事件の典型的な取り調べ」だと感じたという。

 平沢が犯人かどうかは、今回の取材を経ても分からないというのが正直なところだ。ただ、捜査や司法の判断への疑問が解消されていない部分があるのも事実だと思う。捜査当局は絶対的で間違えることはない、犯人ではない人間が自白するわけがない……。そうした「神話」は、長い歳月を経て、無罪を勝ち取った人々の闘いによって綻(ほころ)びを見せている。「なぜ冤罪が起きるのか」という構図も徐々に分かってきた。平沢が無罪かどうかは分からないが、帝銀事件は、その構図の中にあると言えるのではないかと思う。

浮かび上がる占領期の「暗部」

 なぜ帝銀事件を取材しようと思ったのか。明確には思い出せないが、企画を最初に出した6年前、私は、別の未解決事件を取材していた。1987年、朝日新聞の記者が銃殺された「赤報隊事件」だ。私は警察がマークしていた「新右翼」と呼ばれる人たちに会い、話を聞いて回った。彼らの主張は「反米反共」。つまり、アメリカやソ連を敵視し、戦後の日本の姿を形づくったヤルタ・ポツダム体制を打破することこそ、国家と民族が自立できるとの思想を持っていた。彼らの主張には賛同できないことも多かったが、それでも国のあり方について、確固たる考えを持ち、滔々(とうとう)と語る彼らと対峙(たいじ)するために、私自身も書籍を読み漁(あさ)り、考えを巡らせていかざるを得なかった。その過程でたどり着いたのが戦後の日本が形づくられた占領期だった。帝銀事件のことを調べるうち、事件の背後に見え隠れする占領期の暗部に光を当てられないかと考えた。

帝銀事件を伝えるアサヒグラフ=1949年(昭和24年)1月19日号

 鍵となったのが、当時の捜査一課係長だった甲斐文助氏が記した捜査手記だった。この手記自体は、すでに公にされているものだったが、近現代史の大家で明治大学の山田朗教授が歴史家の視点から新たに分析を行っていた。

 捜査員たちは、12人もの人間を殺害した凶器の毒物に注目していた。それを追う捜査は、はからずしも旧日本軍の秘密のベールを剥(は)がしていく。手記には、731部隊や登戸研究所など軍の極秘機関で行われていた毒物の人体実験の実態が克明に記されていた。

 帝銀事件が起きた当時は、米ソ冷戦の緊張が高まっていた時期とも重なる。アメリカは、731部隊の人体実験のデータを得る代わりに、戦犯となるはずの人々の罪を秘密裏に免責するという取引も行っていた。そうした大国の思惑は、帝銀事件の捜査にも影を落としていた。GHQと関係が深かった元陸軍将校は、その存在をほのめかし、軍関係を調べる捜査員に注意を与えていた。731部隊のメンバーは、GHQに口止めされていて捜査に協力できないという旨を伝えている。

 GHQが事件の捜査自体に直接的に何か働きかけを行ったかどうかは、証拠がない。ただ、さまざまな点をつなぎあわせると、一つの線がおぼろげに見えてくる。帝銀事件の捜査によって、日本軍の秘密部隊の実態が公になっては困る。GHQはそうした思惑のもと、警察に何らかの影響を及ぼしたのではないか。もしくは、警察がGHQの意向を慮(おもんぱか)って、突如、捜査線上に浮かんだ平沢へと矛先を転換したのではないか。あくまで仮説の域を出ないが、そう考えると納得がいくという人は少なくない。

 寄稿にあたり、今号のテーマである「ジャーナリズムの責任」についての意見も添えてほしいと依頼を受けた。正直なところ、私の身に余るテーマでどう語ればいいのか難しい。権力の監視、埋もれた事実の掘り起こし、声なき声の代弁、世間に必要な情報の伝達……どれも当たり前と言われそうだし、十分に果たすことができているかと問われると、答えに窮するところもある。

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