2021年06月10日
2011年3月15日未明、東京・霞が関の経済産業省別館3階・緊急時対応センターに、阿部清治(きよはる)(当時64)はいた。その4年前まで阿部が同省の審議官だった時の部下で、原子力安全・保安院の次長を務める平岡英治(えいじ)(同55)が目の前にいた。
ケースによっては、とんでもないことが起きる。これは予測できない。
平岡の記憶によれば、阿部は必死の形相でそう訴えた。
その3日半前、東京電力福島第一原発は大津波に襲われた。1号機、3号機の原子炉建屋が爆発。周囲20キロの住民に避難が指示されている。が、それとは次元の異なる広範囲で避難が必要となる事態を阿部は恐れているというのだ。
「とんでもないこと」ってどういうことですか?
保安院ナンバー2の平岡は阿部にそう尋ねた。
DCH――。
炉心溶融事故の専門家である阿部はそう答えた。
その時、2号機の原子炉圧力容器に冷却水はほとんどない。圧力容器に収まる核燃料から数千キロワット相当の熱が出続けているのにそれを冷やすことができず、空だき状態。しかも炉内は気圧の20~30倍もの高圧。消防車のポンプで水を押し込もうとしても、圧力の高さに負けて水が入らない。
もし溶融物がばらばらの破片となって穴から噴出し、高圧を背に格納容器の中に飛び散って、その熱が直接、容器内のガスに急激に伝わったら一体どうなるか。既に設計上の最高使用圧力を大きく超えていた格納容器の内圧はさらに急上昇し、一気に壁を破り、すさまじい上昇気流で原子炉の中身が空高く吹き飛ばされる――。そんな可能性も捨てきれない。
飛行機の窓が割れたときに機外との圧力差で機内の人や物が外に吸い出されてしまう、そんな映画のシーンを阿部は思い浮かべていた。機外との圧力差が1気圧に満たないはずなのにあのようになるのならば、圧力容器と格納容器の内圧の差が10気圧を超えるような場合は、もっとすさまじいことになるだろうと推測できる。
「ダイレクト・コンテインメント・ヒーティング(Direct Containment Heating)」の頭文字をとってDCH。英単語の順に従った「直接 格納容器 加熱」ではなく、あえて語順を変えて「格納容器 直接 加熱」と訳したのは阿部自身だ。
平岡は阿部の説明を聞いて状況の深刻さを改めて認識した。
阿部:圧力下げなきゃ大変なことになる。
平岡:それは分かっているんですけど、では、具体的な手段はあるんですか。
阿部:ぶちこわしてでも何をしてでも、とにかく圧力を下げなきゃいけない。東電とも話したが、方法はある。
平岡:方法があるんでしたら、それが技術的に可能か、官邸に班目(まだらめ)委員長がいらっしゃるので、議論してもらえませんか。
阿部自身はほとんど記憶していないと言うが、平岡によれば、強い調子でそんなやりとりがあった。
原発の安全規制に40年余にわたって関わった原子炉事故研究者、阿部清治(75)の目を通し、日本が原子力にどう向き合ってきたか、その現場を5回の連載でたどる。この原稿は、2021年3月15日の朝日新聞夕刊に掲載された原稿に大幅加筆したその第1回。敬称はすべて略す。
第2回は「原発『安全研究』は事故リスク解析、米スリーマイル島事故が転機に」。
第3回は「桁違いに大きい地震の原発事故リスクに『安全目標』未達? 見送られた津波対策」。
第4回は「原発の安全規制で『戦争』を想定外にしていい理由は? 『我々、福島で痛い目に』」。
第5回は「『それでも、いつかどこかで原発事故は起きる』 想像力を養い、弱点見抜け」。
経産省別館3階の別室ではそのとき、北海道大学教授の杉山憲一郎や保安院出身の経産省職員、阿部の勤務先だった独立行政法人・原子力安全基盤機構(JNES)の専門家が、緊急時対応センターからやや距離を置いて、圧力や水位の推移をグラフに描き、起こり得る事態の予測に努めていた。杉山によれば、3月14日、JNESの事務所に杉山が出向いて、「保安院に来てアドバイスしてほしいと中の人が言ってますよ」と阿部に話した。これに加えて、保安院行きを渋る阿部の様子について杉山から「向こうは向こうで忙しいみたいで」と伝えられた保安院の幹部も、阿部に電話をかけたようだ。その結果、14日の夜、阿部はその別室になかば無理やりに引き入れられたのだ。
2号機の格納容器に窒素を封入するための配管を建屋の外で開けて内部のガスを抜く方法は、福島第一の現場をよく知る保安院出身の経産省職員から提案があった。海方向に風が吹くのを見計らってそれを行えば、汚染は最小限に抑えられる。
実は、半日あまり前の14日午前、阿部は官邸にいた。近い将来きっと出てくるであろう汚染水を外海に漏出させないようにするための、あるアイデアを提案するためだった。
福島第一原発の前面にある専用港の入り口に古い船を沈めて、その上にコンクリートを流し込んで、港を封鎖する――。
日露戦争の際にロシア艦隊のいる旅順港を閉塞しようと、日本海軍が、港の入り口に船を沈める作戦を実施した、その史実からヒントを得て、自衛隊出身のJNES職員から提案があったのだ。
3月14日時点ではそうではなかったが、20日以降、放射能汚染水の海への流出をどうやって食い止めるかが、福島第一原発にとって喫緊の課題として浮かび上がっていく。冷却のために原子炉に入れた水がどこからか炉の外のタービン建屋に漏れ出し、さらには敷地内のトレンチに漏れていることがわかり、それに前後して、近隣の海の水から規制の基準値を大きく超える放射能汚染が検出されることになるのだが、それらはいずれも3月20日以降のことだ。
それより1週間早い3月14日午前、福島第一原発前面の専用港を閉塞できるかどうかその実現可能性を検討しているとき、「原子力安全委員会に行って説明するように」との話があり、阿部は霞が関に足を運んだ。が、その原子力安全委員会に委員長の班目はいなかった。今度は「直ちに官邸に行って説明せよ」との話があり、阿部は永田町に向かった。阿部は「こんな思いつきだけの提案を持ち込むのには抵抗があった」という。けれども、ともかく、班目や菅直人首相らのいる官邸に入った。
なかば予想していたことではあったが、官邸は「こんなに忙しいところに何しに来た!」との空気だった。阿部自身、中途半端な案を持ってこざるを得なかったことを適切とは思っていなかった。とはいえ、官邸に「横からの提案」を検討する気配はなく、阿部は、まったく相手にされなかった、と感じた。
その半日ほど後の15日未明のことだった。DCHの恐れとその予防策の提案をめぐって、平岡から「官邸に班目委員長がいらっしゃるので、議論してもらえませんか」と勧められたのだ。それきり阿部は引き下がった。
なぜ引き下がったのか。阿部によれば、昼間見た官邸の雰囲気からして、進言が受け付けられそうにないと思われた。それに加え、別の躊躇があった。排気筒ではなく建屋のそばの地上で格納容器内部のガスを噴き出させれば、東京など広範囲の汚染は防げるだろうが、建屋の周りは確実に強い放射能で汚染され、現場での注水などの作業を中断せざるを得なくなる。事故の最中はわからないことが多く、その不確実さを抱えながら意思決定しなくてはならない。そこにも困難があった。
一方、平岡は、格納容器の圧力を抜く方法があるのだったら、政府の指示を受けなくても、当然、東電が自分でやるはずだと思っていた。DCHで格納容器が破壊されれば大変な被害になるおそれがあるという具体的なイメージを阿部の説明で理解することができたが、平岡が欲していたのは実現可能な具体的な手段の提案だった。平岡は「これは無理だ」と思った。
手の打ちようがない状態だった。遠からずどこかから圧力は抜ける。平岡も阿部も、運を天に任せ、その「何か」が起きるのを待つしかなかった。(次回につづく)
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください