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タイの日系企業駐在員が日本に一時帰国する際の留意点

下向 智子

1.はじめに

下向 智子(しもむかい・ともこ)
 1999年、京都大学法学部卒業。2008年、The University of Michigan Law School卒業。2008年、ニューヨーク州弁護士登録。2009年、早稲田大学法科大学院修了。2010年、東京弁護士会登録。2014年〜2016年、厚生年金基金の特例解散等に関する専門委員会 臨時委員。現在は西村あさひ法律事務所パートナーとして、タイ事務所に出向。
 これまでタイと日本は大変往来が容易な国であった。飛行機で約6時間の距離で便数も多く、時差も2時間のみで、多くの日系企業にとってタイは短期・長期で気軽に出張ができる先であり、必要があれば急遽帰国することも可能であった。ところが、新型コロナウイルスによって状況は一変した。タイでは新型コロナウイルスの感染がなかなか収まらず、タイ政府が在宅勤務を推奨していることもあり、多くの企業において在宅勤務が導入され、ビジネスシーンにおいて対面での会議や交渉を行うことはかなり限定的となっている。また、デモ・政治集会も活発化し、また、一部治安の悪化もみられる。このような状況下において、タイの日本人駐在員を一時的に日本に退避させる日系企業も少なからずみられる。長期の帰国を会社が命じる場合もあれば、タイで日本人を含む外国人のワクチン接種が進んでいないことを受け、外務省が実施している空港での海外在留邦人への新型コロナウイルスワクチン接種事業のため、タイの駐在員を日本に一時的に帰国させるケースも多くみられる。経済活動にも配慮して規制は徐々に緩和される見通しであるものの、タイと日本を行き来するためには依然として両国による隔離期間も設けられているところであり、国をまたぐ移動はハードルが高い状況が続いている。

 当面両国の往来が制限される見通しの中で、タイの日系企業の日本人駐在員がある程度の期間タイを離れる場合の対応について、主な留意点をご紹介したい。

2.取締役の善管注意義務等の観点

 タイに進出している日系企業はその多くが非公開会社の形態をとっているが、タイ法上、非公開会社の取締役についてタイ居住要件は課されていない。日本人駐在員は取締役の地位についていることが少なくないが、非公開会社の日本人取締役が日本等のタイ国外に所在して執務すること自体には特段の問題はないと解される。取締役については注意義務・忠実義務が民商法典上課されており、一定の事項について他の取締役と連帯して責任を負うこととされているが、それらの義務を果たしている限りにおいては、単にタイ国外に取締役がいること自体が直ちに何らかの義務違反となり責任を問われるといったことにはならないものと解される。

 また、職場安全衛生環境法において、使用者は従業員の安全で衛生的な職場環境を保持する義務等が規定されている。この法律においても特に取締役のタイ居住要件は規定されていないが、当局が労働災害等を契機に会社に調査に入った場合、当局が取締役による当局対応を要請することが一般にみられ、取締役が不在で担当者が判然としない場合には当局から不要な指摘を受ける懸念もある。そのため、当局からコンタクトや調査があった場合に誰がどのように対応するかといった日本人取締役不在中の対応手順をあらかじめ決めておくことが必要となる。

3.株主総会・取締役会

 従前タイでは株主総会・取締役会の電子的方法による開催は認められておらず物理的に参集することが必要とされていたが、新型コロナウイルスの流行を受け、2020年に発出された緊急勅令により、株主総会・取締役会の電子的開催が認められることとなった。これにより、取締役がタイに所在していなくとも、株主総会・取締役会を開催することが容易になったといえる。

 もっとも、株主総会に関しては、従前から株主が委任状を発行して代理人により参加することが認められているので、委任状を発行すれば必ずしも株主自身で出席する必要はない。また、民商法典上株主総会の開催地に関して特段の規定はないので、タイだけではなく、日本等の外国で開催することも可能とされている。ただし、会社の付属定款において開催地の指定(例えばタイの本社所在地等)をすることも可能と解されているので、詳細は各会社の付属定款を確認しなければならない点には注意が必要である。

 また、取締役会に関しても民商法典上開催地に関して特段の規制等はないため、従前よりタイだけではなく、定足数を満たす取締役が参集すれば日本等の外国で開催することも可能とされていた。もっとも、こちらも開催地が会社の付属定款で限定されている場合があるため、各会社の付属定款を確認する必要がある。

4.タイの会社のサイン権限

 上記のとおり、取締役がタイ国外に所在していること自体が直ちに問題となるわけではないものの、実務上、サインにどう対応するかという問題に多くの日系企業が直面することとなる。タイはサイン文化であり、政府機関に提出する書類をはじめ、非常に多くの書類に日常的にサインをすることが求められる。このサインに関しては、具体的なサイン方法が商務省に登記される制度となっている。すなわち、サイン権限取締役(Authorized Director)が誰か、単独サインか複数名のサインか、サインに加えて会社印の押印が必要かといったサイン方法の詳細について商務省に登記されており、第三者もこの登記を確認することができる。タイでは、会社を拘束するためには、基本的にこの登記された方法に則ってサインを行うことが求められる。

 この点、日系企業ではこのサイン権限取締役が全員日本人駐在員である、又は、日本人駐在員のサインがなければ会社を拘束することができないとしているケースが少なくない。そのため、サイン権限取締役である日本人駐在員がタイを離れた場合に、会社の運営に支障が生じる懸念がある。以下、日系企業から質問の多い事項について述べたい。

5.タイ国外でサイン権限取締役が執務する際のサイン方法

 日本でサイン権限取締役が執務を行う際のサインに関し、主な対応方法としては以下の方法が挙げられる。

(1)サイン権限取締役が日本でサインして配送する

 昨今の配送サービスの発達により書類の配送スピードは格段に速くなっており、タイと日本の間でも数日で書類を配送することが可能となっている。そのため、サイン権限取締役のサインが必要な書類には、サイン権限取締役が日本でサインをして、郵便・クーリエで配送するという方法が考えられる。

 もっとも、やはり郵便・クーリエの配送については一定の日数を要するほか、タイ国外でサイン権限取締役がサインをする場合には、書類提出先の機関や契約の相手方によっては、公証人による公証・在日タイ大使館による認証を要求されることが少なくないため、手続が煩雑となり迅速なサインが難しくなるというリスクがある。

 一般に、商務省に提出する書類には公証・認証は要請されないことが通例であるが、タイでは担当官に広範な裁量が認められているため、担当官によってはタイ国外でのサインについて受理を認めない場合も少なからず耳にする。また、税務当局、土地局、裁判所等に提出する書面へのサインについては、サイン権限取締役がタイ国内でサインしない場合には公証・認証が求められることが通例であるほか、サイン権限取締役がワークパーミット(タイで仕事を行う場合に必要とされる就労許可証)を保有していない場合には、追加の資料等を求められることが一般に行われている。

(2)電子署名の方法を用いる

 電子署名については、2001年電子取引法により、電子署名を付した電子書類又はデータメッセージは有効であると規定されている。この電子署名は、以下の要件を満たす場合に信頼できる電子署名であるとみなされる。

  1.  署名作成データが、使用される文脈の中で署名者と紐づけられており、かつ、署名者以外の者と紐づけられていない。
  2.  署名作成データが署名時に署名者の管理下にあった、かつ、署名者以外の者の管理下になかった。
  3.  電子署名後の変更の一切が検出可能である。
  4.  署名者が情報の完全性と整合性を保証することを電子署名により示すとする場合、署名時以降に、その情報に行われた変更の一切を検出可能である。

 もっとも、電子署名は慣行的に①委任状、②不動産売買契約、③公的機関との契約、④土地登記に係る契約、⑤婚姻届・離婚届、⑥許認可等の申請書、⑦公証書面、⑧IDカードの申請書、⑨住居登録の申請書、⑩氏名変更登録といった場合には認められないことが通例であるため、柔軟性に欠けるところがある。

 また、法律上電子署名は有効であると規定されているものの、十分な実務が積み重なっているわけではなく、実務上は手書きのサインが未だに主流であるため、政府機関や契約の相手方が実務上電子署名を受け付けないことも多いのがタイの現状となっていることにも留意が必要である。

(3)委任状(Power of Attorney)を発出し、タイ人従業員にサイン権限を委任する

 タイでは、委任状を発行することにより、サイン権限を委譲することができる。従って、日本人駐在員がタイを離れている間、タイに所在するタイ人従業員に一時的に委任状を発行してサイン権限を付与する方法も考えられる。委任状には特段の法的な様式等はなく、必要事項を記載した上で登記されたサイン権限に則ってサインすることにより発行が可能である。

 委任状においては、委譲するサイン権限の内容や委譲する期間を定めることが可能であり、個々の案件ごとに委任状を発行することも、包括的に権限を委譲することもできるため、委任状の発行は現実的な臨時的措置となり得る。

 もっとも、予期せぬサイン等がされてしまわないよう、権限を委譲する者の人選、委譲権限の範囲、有効期間の設定等については一般に相当慎重な検討が必要となる。

 また、委任状に基づくサインは政府機関や銀行は受け付けないことが多く、契約書等についても相手方が受理しないこともあり得る。そのため、会社の業務内容に応じて、政府機関や銀行への書類提出が日常的に必要である場合には、委任状の発行のみによっては対応が難しいという実態もみられる。

(4)タイに所在するタイ人をサイン権限取締役に選任する

 日本人駐在員が全員タイを長期的に離れる場合には、タイ人を臨時的にサイン権限取締役にすることも考えられる方法の1つである。取締役の選任に当たっては一般的に株主総会の普通決議が必要となるが、会社の付属定款において取締役会がサイン権限を決定する旨の規定がある場合には、規定の内容に応じて取締役会決議でサイン権限の変更も可能な場合がある。なお、付属定款に追加の手続等が規定されている場合には、当該規定に従う必要がある。

 タイ人にサイン権限を付与する等、会社のサイン権限を変更した場合には、変更日から14日以内に商務省にその内容を登記する必要がある。

 サイン権限に関しては金額制限(一定の金額以上の取引には複数名のサインが必要等)やサイン権限範囲の特定(政府機関に提出する書面のみサイン可能等)をして、それを登記することも制度上は可能ではあるが、どの程度のサイン権限の限定に関して登記が受け付けられるかは商務省の裁量判断次第となるため、必ずしも会社が望むとおりのサイン権限の制限に係る登記が受け付けられる保証はなく、きめ細かな対応は難しい場合がある。

 また、タイ人をサイン権限取締役とすることは、迅速な会社運営を可能にするというメリットはあるものの、信頼できるタイ人がいない場合には臨時的であっても予期しないサインがされる等のリスクを抱えることとなるため、相当慎重な検討が求められる。

6.最後に

 タイの日系企業は、新

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