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Forgive But Never Forget ~ビジネスで忘れてはならない戦争の記憶~

岩井 久美子

拡大岩井 久美子(いわい・くみこ)
 2001年3月、慶應義塾大学法学部卒。2006年3月、慶應義塾大学法科大学院修了(法務博士(専門職))。2008年12月、司法修習(61期)を経て弁護士登録。2008年12月~2011年6月、弁護士法人曾我・瓜生・糸賀法律事務所。2011年7月から2014年7月まで独立行政法人工業所有権情報・研修館(INPIT)出向。2012年3月~2019年4月、曾我法律事務所。2019年5月、アンダーソン・毛利・友常法律事務所入所。

~はじめに~

 77回目の終戦記念日まであとわずかである。

 筆者は弁護士登録直後の2008年に中国に留学し、その後もフィリピン、タイと、弁護士登録後の半分近くの期間をアジアで過ごしてきたが、アジアの国々の多くでは、1945年は戦勝の年である。終戦後80年近く経ってなお、戦勝記念日(日本が降伏文書に調印した9月2日とする国も多い。)には日系企業はイベントを差し控え、外出を控えるよう日本大使館から注意が喚起される。

 駐在中に親しくなった現地の方に、ふと「祖父は日本兵に背中から撃たれて死んだ」と柔らかく言われたこともある。特にアジアの国々との関係の中では、第二次大戦の記憶を忘れてはならないことを意識させられる。

 米中貿易摩擦やロシアによるウクライナ侵攻を契機に経済安全保障が脚光を浴びているとおり、ビジネスは政治的な思惑や対立により容易に緊張し硬直し、平時にこつこつと積み重ねたものは一気に覆される。中国駐在中にも中国漁船と日本の巡視船との衝突事件をきっかけに日中の緊張は高まり、中国の輸出入手続は遅延し、現地で最前線にいる駐在員や法律事務所は対応に追われた。そして、政治的な対立の背景にはしばしば歴史が横たわっている。

 筆者は2015年から2018年までフィリピン・マニラに滞在していたが、フィリピンは第二次大戦中最大の激戦地である。そして、フィリピン戦線で亡くなったフィリピン人は110万人にのぼるといわれる。

 筆者滞在中の2016年1月には、当時の天皇・皇后(現上皇ご夫妻)が、パラオ・ペリリュー島に始まる第二次大戦激戦地をめぐる「慰霊の旅」の中でフィリピンを訪問し改めて脚光を浴びたものの、日本フィリピン両国で、戦禍を知らない世代も増えつつある。

 フィリピンやシンガポール等の英語圏では、第二次大戦により肉親を亡くしたり辛酸を舐めたりした人々による葛藤と「赦し」の象徴として「Forgive But Never Forget」という表現が使われることも多い。歴史の解釈や評価自体は歴史家ごと、国ごとの面もあるだろうが、少なくとも「知り、記憶していく」ことが必要と実感する。この場をお借りして、筆者がフィリピンで見聞きした戦争の記憶のうち特に印象の深い何コマかを紹介させていただくことにしよう。

1. マニラ市街戦とキリノ大統領

拡大メモラーレ・マニラ
 強烈な陽光に灼かれた古い石畳に落ちた白いプルメリアの花と、立ちのぼる強い香り。その石像、MEMORARE MANILA(メモラーレ・マニラ)は、今も官庁や大手新聞社等が軒を連ねるマニラ旧市街、イントラムロスの大聖堂近くにひっそりとある。

 1945年2月、イントラムロスに立てこもった日本軍に対し米軍は無差別攻撃に踏み切り、かつて「東洋の真珠」と謳われた街はほとんどが崩壊し女性・子どもを含む約10万人の非戦闘員が犠牲となったといわれる。メモラーレ・マニラは、マニラ市街戦から50年経った1995年に、戦争の記憶が急速に風化してゆく危機感を背景に、体験者ら有志により建立された。

 左側の青年の遺体は若々しい希望が奪われたことを、前面に横たわる老人の遺体は街の歴史・文化が死んだことを、右側の女性はレイプ被害を象徴し、真ん中の赤ん坊を抱いた女性像は、母なる国フィリピンと、再生の希望を象徴するという(注1)

 後にフィリピン第6代大統領となったキリノ大統領は、マニラ市街戦で妻と三人の子を含む家族を日本兵に殺害された。そのキリノ大統領が、日本からの助命嘆願に応え、モンテンルパ刑務所に収容された日本人BC級戦犯に特赦を与えたことは広く知られている。

 法的な面でいえば、フィリピン法では全面無罪とする大赦には議会の承認が必要であったため、キリノ大統領は大統領権限で行うことができる特赦(executive clemency)により刑を減刑した。最初の特赦により、死刑囚は終身刑に減刑され、日本に送還のうえ巣鴨プリズンに収容され、死刑囚以外の者は釈放のうえ日本に送還された。当時の国民感情からはこの特赦は到底受け入れられるものではなくキリノ大統領は大統領選で大敗したが、任期切れ直前に再度の特赦を発し、巣鴨プリズンに収容されていた終身刑の囚人も釈放された。

 大統領は最初の特赦時に、「日本人は私の妻と3人の子供、ほか5人の家族を殺したのであるから、私は最も彼らを赦すはずがない人間である。私は、私の子供たちや国民に、国の恒久的な利益のために、友人になるかもしれない人々への憎しみを受け継いでほしくないため、これを行うことにした。結局のところ、運命は私たちを隣人になさしめたのである。」と声明している。

2. クラーク経済特区、コレヒドール島

拡大
 クラークはマニラから2時間ほどの場所にある米空軍基地の跡地であり、1991年に米軍から返還後1996年には経済特区に指定され、日系企業を含む多くの外国企業が進出している。時を遡り1941年12月8日、真珠湾攻撃とほぼ時を同じくして日本軍は当時のクラーク米空軍基地を攻撃した。米軍はマニラからの退去等を経てマニラ湾の要衝コレヒドール要塞で日本軍を迎撃したが、激戦の結果コレヒドール要塞から退去をやむなくされた。当時米軍側を指揮したダグラス・マッカーサーは、「必ず戻る」(I shall return)との言葉を残しているが、その言葉どおりレイテ島等の激戦を経て1945年3月にコレヒドール要塞の日本軍は陥落した。

 コレヒドール島では、米軍基地時代の設備とともに、戦死や玉砕を余儀なくされた日本兵の残した足跡をみることができる。残された写真を見れば多くは地方出身のまだ20歳前後の若者たちであった。爆破により日本軍数千人が玉砕に近い形で亡くなったとされるマリンタトンネル内の展示では、最後にフィリピン国旗が掲揚され国歌が演奏される。もともとフィリピンは、スペインによる300年以上の植民地時代を経て、米西戦争後に米国による統治が開始され、独立運動の結果、米国議会との間で1934年には「10年後の独立」が約束されていたが、日本の統治により果たされなかったという経緯がある。日本の敗戦はフィリピン人にとり「勝利による独立」を意味することを思い知らされる演出であった。

3. 遺骨収集事業

 現上皇ご夫妻は前出の2016年フィリピン訪問の際、たってのご希望でマニラ郊外のカリラヤにある「比島戦没者の碑」に訪問されている。マニラ中心部にある大規模な米国の戦没者墓地と対照的に、この碑のモニュメントは布にくるまれた一柱のお骨、ただそれのみである。

拡大フィリピンのカリラヤにある戦没者慰霊碑

 遺骨収集事業を行う厚生労働省によれば、太平洋戦争での戦没日本人の総数およそ240万人のうち約112万柱の遺骨は未だに収容されていない。フィリピンでは死者約52万人のうち約37万人分の遺骨が未収容である(注2)

 日本弁護士連合会は、2012年に厚労相あてに戦没者の遺骨収集に関する意見書を発出し、日本人軍人軍属に限らない一般市民や外国籍保有者を含む海外戦没者の遺骨を収集すべきこと、できる限り個体再現作業をしつつ保存し、遺骨のDNAデータベースや遺族のそれを作成集積して、将来のDNA鑑定実施に備えること等を提唱した。

 2016年には、「戦没者遺骨収集推進法」が成立・施行され、2016年から2024年度までを遺骨収集の「集中実施期間」と規定し、遺骨の収集・送還等の実務は新規設立される法人が集中的に行うことが規定された。現在は、戦没者の遺族の申請により、必要な検体を採取できた遺骨についてDNA鑑定を受けることができる。もっとも、フィリピンの検体数(身元が確定され遺族にお返ししたものを除く)はわずか40柱分にすぎず、フィリピンの島々には未だ膨大な数の遺骨が眠っている。

 注目されるのは、日弁連の意見書で「遺体の捜索・発見・収容に際しては、戦争により被害を受けた現地の国民感情、住民感情に十分配慮して行うものとすること」とされていることである。現上皇ご夫妻は皇太子時代の1952年にもフィリピンを訪問されているが、報道によれば現地感情等に配慮し日本人戦没者の慰霊式典はされず、先の訪比のカリラヤ訪問で初めて実現したという経緯がある。

 キリノ大統領の政治生命を賭した特赦に象徴されるフィリピンの国民性に加え、戦後の日本とフィリピンとのビジネスを含む長年の交流によりカリラヤ訪問の実現に至ったのかもしれないと思うと、フィリピン法務に携わる者として身が引き締まる思いがする。

~おわりに~

 官庁街や弁護士会館からもほど近い日比谷公園には、2016年の現上皇ご夫妻の訪比後にフィリピンとかかわりの深い企業等の寄付によりフィリピン大使館が建立したキリノ大統領の顕彰碑が佇んでいる。今夏はぜひ立ち寄られ、「Forgive But Never Forget」のもつ重みについて思いを馳せてみるのはいかがだろうか。

 ▽注1:「週刊朝日」2016年2月12日号「両陛下 フィリピン慰霊の旅へ」
 ▽注2:厚生労働省HP「戦没者遺族等への援護」
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/index.html
(厚生労働省は旧陸海軍から人事関係資料等を引き継ぎ、終戦後の引揚者対策や戦傷病者等の援護行政の一貫として、遺骨収集事業を国の責務として行っている。)

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筆者

岩井 久美子

岩井 久美子(いわい・くみこ) 

 2001年3月、慶應義塾大学法学部卒。2006年3月、慶應義塾大学法科大学院修了(法務博士(専門職))。2008年12月、司法修習(61期)を経て弁護士登録。2008年12月~2011年6月、 弁護士法人曾我・瓜生・糸賀法律事務所(北京事務所、東京事務所、上海事務所)。2011年7月から2014年7月まで独立行政法人工業所有権情報・研修館(INPIT)出向。2012年3月~2019年4月、曾我法律事務所。2019年5月、アンダーソン・毛利・友常法律事務所入所。
 2012年~2015年、慶應義塾大学大学院法務研究科(法科大学院)助教。2012年~2015年、一般財団法人ソフトウェア情報センター(SOFTIC)「中国における知的財産権問題等に関する検討委員会」委員。2013年から国家試験知財管理技能検定委員。2014年~2021年、山口大学大学院技術経営研究科非常勤講師。2015年、東京工業大学社会人大学院非常勤講師。2015年~2018年、一般財団法人ソフトウェア情報センター(SOFTIC)「IoT時代におけるOSSの利用と法的リスクに関する検討委員会」委員。2016年9月~2018年7月、Gatmaytan Yap Patacsil Gutierrez & Protacio (C&G Law, Philippines)出向。2018年から一般社団法人日本知的財産協会研修会講師。2020年4月~2020年9月、神戸大学大学院法学研究科非常勤講師。2022年から日弁連知財センター委員。2022年1月、アンダーソン・毛利・友常事務所スペシャル・カウンセル就任。2022年4月から神戸大学大学院法学研究科非常勤講師。2022年4月から山口大学大学院技術経営研究科非常勤講師。
 主な著書・論文に「意匠・デザインの法律相談Ⅰ・Ⅱ」(共著、青林書院、2021年2月)、「知財法務の勘所Q&A(第26回)OSSライセンスの基礎知識」(知財ぷりずむ8月号Vol.17 No.203、2019年8月)、「OSSライセンスのリスク管理術~OSSを提供する側・される側の両側面から~」(Business Law Journal 2019年8月号、2019年6月)、「OSSライセンスの教科書 技術評論社」(監修、2018年9月)、「IoT時代におけるOSSの利用と法的諸問題 Q&A集」(共著、一般社団法人ソフトウェア情報センター、2018年3月)、「フィリピン個人情報保護法とその施行規則について」(国際商事法務2017年7号、Vol.45 No.7、2017年7月)などがある。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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